八幡町をゆく(27) 望理里(まがりのさと)(1)
『播磨風土記』が作られた奈良時代、八幡地方は、望理里(まがりのさと)と呼ばれました。
風土記の一部を読んでおきます。
・・・景行天皇(けいこうてんのう)が巡幸の時、この村の川の流れが曲がっているのを見て「この川の曲がり具合は、はなはだ美しい」と仰せられました。
それで、この地を「望理里」という・・・
加古川は、美嚢川(みのがわ)と加古川が合流点あたりから、流れは西に弧を描きながら流れています。
『播磨風土記』が書かれた奈良時代、この辺りのかこがわ流れは現在の流れと大きく異なり、加古川は、宗佐(そうさ)の辺りから、国包(くにかね)の東を流れ、船町・下村のあたりから流路を変え、中西条の西に流れていたと考えられていたようです。
八幡地区は、加古川が大きく曲がった東岸の地域に広がっていました。まさに「曲がりの里」でした。
山頂から眺めた望理里は、まさに絶景であったことでしょう。
「しかし」とその後を続けなければなりません。
古代より加古川は、暴れ川でした。
台風、それに長雨の時など、加古川は気決まったおうに洪水を引きおこしましたた。
水は、まっすぐに流れようとします。
望理里は、まさに洪水の直撃をくらう地域でした。
そんな証拠が地形に残されています。
*『加古川の流れ(建設省近畿地方建設局・姫路工事事務所)』(1975)参照
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