志方町をゆく(108) 細工所(8) 法華山谷川のながれ(3)
法華山谷川の川筋変更は江戸初期か
『志方町誌』は、法華山谷川の流路更説には慎重ですが、慎重ながら流路の変更説を主張されています。
水利権
農民にとって「水」はまさに農民の命でした。そのため各地で水をめぐって激しい争いがおきています。
水に関しては、厳格な掟(おきて)がありました。水利権です。水利の変更はほとんど不可能でした。
ましてや、川筋を変更するとなると大問題です。
藩権力
記録はないのですが、それを可能にする方法が、ひとつだけあります。
それは、法華山谷川の川筋変更を藩に願いでることです。(藩の指導であったのかもしれません)
東志方の開発許可を姫路藩に申し出て、藩の許可を得ることでした。
江戸時代、姫路藩の財政事情は火の車でした。
年貢の増収を目指さなければならない事情がありました。
旧来の村の水利習慣をかたくなに守っておれば新田は増えません、とうぜん年貢は増えません。
そこで、藩は各地の水利慣行を変更してでも年貢の増収を目指しました。
「藩(藩主)の命令」ということであれば、利害が対立する村々としても「ノー」とは言えません。利害の対立する村々も、認めざるを得ませんでした。
他藩の開発許可は出せない
東志方の村々には特別な問題がありました。
宝永六年(1709)、先の紹介したように多くの東志方の村々は小田原藩領となり、それに続き延享三年(1686)より一橋藩の天領として幕末まで続きました。
宝永六年以降、姫路藩は他藩である東志方の村々に命令を出すことができなくなりました。
ですから、川筋変更の許可(命令)が出て、川筋の変更が実施されたのは江戸時代の初めから宝永六年に限られます。
法華山谷川の河川の流路変更も江戸時代前期であったのでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます