志方町をゆく(93) 綿の里(9) 姫路木綿問屋と長束木綿問屋
姫路木綿は、二つのルートを通じて江戸・大坂へ出荷されていました。
姫路城周辺の木綿問屋は、江戸積に積極的でしたが、長束木綿問屋(加古川・高砂地方の木綿問屋)は、今までの取引の関係もあり、必ずしも江戸積み一本にまとまっていませんでした。
そんな状況下で、姫路藩の木綿の専売制度は実施されました。
姫路藩の専売制は綿を作るにしても、織るにしても規制は緩やかなものでした。
綿布などでは幅不足などの品もたくさん生産されるようになり、藩側は、江戸積み重視の立場から、幅・長さ等の規格を厳しくしました。
東志方は、姫路藩にあらず
しかし、綿布の織りにも寸法不足な不良品の流通も減少しません。
藩は、規格を守るように取締りを強めたのですが、取り締まれない事情がありました。
印南郡の一部(東志方)は、一ツ橋領(天領)で姫路藩ではありません。
*東志方のほとんどが天領になったいきさつについては、「フェイスブック、ひろかずのブログ・2の「志方町をゆく(4~10)」をご覧ください。
東志方(一橋領)では姫路藩なみにしていましたが、姫路藩が規制を強制し始めると、東志方一橋領の仲買商は姫路藩から規格外の品を盛んに買い取って姫路藩の専売制に影響が出るようになりました。
姫路藩としても、他領(天領)の取り締まりはできません。
そんな事情もあり、加古川・高砂地方の商人は姫路藩では認められていない規格外の綿布も、取り扱いました。
とりわけ、この傾向は、細工所の木綿商人、同じく一橋領であった今市・中島・曾根(現:高砂市)の村々の木綿商人に大きかったのですが、彼らはひと儲けをしたというわけです。
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