ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

八幡町をゆく(21) 寛延一揆・沼田平九郎(2)

2024-06-11 08:28:27 | 加古川市八幡町をゆく

      八幡町をゆく(21) 寛延一揆・沼田平九郎(2)

 二年(1749)、西条組大庄屋・沼田平九郎宅(現:加古川市八幡町中西条)は、一揆衆に打ち壊されました。

 当時の藩内び状況を見ておきます。

 1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決まりました。

 藩内の商人は、借金の返済を求めましたが、借金を踏み倒しての姫路入りとなりました。

 姫路への引越し費用を江戸の商人からの借金でまかなったのです。

 この時、商人と「借は姫路で支払う・・」という約束でした。

 姫路に入るや、年貢の引き上げなど」、増収となりました。

 その上、延享二年(1745)、家重が九代将軍を引き継ぎ、朝鮮国からお祝いのため。延享五年(1748)、477名が来朝し、途中一行は、室津(龍野市)に立ち寄ることになりました。

 幕府は、この接待のための費用(二万両)を姫路藩に命じました。

 借金まみれの姫路藩に商人は協力出来ません。

 さらに:に、悪いことがかさなりました。

 明距(あきのり)の姫路入部以来、6年に四度の暴風雨に見舞われ、凶作が続いたのです。

 48年も、大干ばつと台風で「大凶作」となりました。

 藩は、「農具を売ってでも年貢を納めよ」という強攻策にでました。

 沼田平九郎は藩に迎合したのです。

 年貢の減免を願い出た百姓は達は投獄されてしまいました。

 百姓たちの不満が爆発しました。

 滑(なめら・夢前町)でも、甚兵衛が中心となり大庄屋宅を打ち壊した。野谷新村と夢前(飾西郡)で燃え上がった一揆は、図のように瞬く間に姫路藩を震撼させる一揆にひろがりました。

 藩から足軽部隊が出動した。亀山・船場(姫路市)本徳寺も百姓を説得しました。

やがて、一揆は終息。厳しい調べが大坂奉行所で行われ、寛延三年(1750)九月判決が言い渡されました。

  野谷新村  伊左衛門  磔刑

  滑村    甚兵衛   磔刑     *その他、獄門三名

 伊左衛門は六月、大坂の牢で亡くなり、死体は塩漬けにされました。

 藩は、塩漬けの伊左衛門を市川河原に引き出し磔にしました。





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