八幡町をゆく(21) 寛延一揆・沼田平九郎(2)
二年(1749)、西条組大庄屋・沼田平九郎宅(現:加古川市八幡町中西条)は、一揆衆に打ち壊されました。
当時の藩内び状況を見ておきます。
1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決まりました。
藩内の商人は、借金の返済を求めましたが、借金を踏み倒しての姫路入りとなりました。
姫路への引越し費用を江戸の商人からの借金でまかなったのです。
この時、商人と「借は姫路で支払う・・」という約束でした。
姫路に入るや、年貢の引き上げなど」、増収となりました。
その上、延享二年(1745)、家重が九代将軍を引き継ぎ、朝鮮国からお祝いのため。延享五年(1748)、477名が来朝し、途中一行は、室津(龍野市)に立ち寄ることになりました。
幕府は、この接待のための費用(二万両)を姫路藩に命じました。
借金まみれの姫路藩に商人は協力出来ません。
さらに:に、悪いことがかさなりました。
明距(あきのり)の姫路入部以来、6年に四度の暴風雨に見舞われ、凶作が続いたのです。
48年も、大干ばつと台風で「大凶作」となりました。
藩は、「農具を売ってでも年貢を納めよ」という強攻策にでました。
沼田平九郎は藩に迎合したのです。
年貢の減免を願い出た百姓は達は投獄されてしまいました。
百姓たちの不満が爆発しました。
滑(なめら・夢前町)でも、甚兵衛が中心となり大庄屋宅を打ち壊した。野谷新村と夢前(飾西郡)で燃え上がった一揆は、図のように瞬く間に姫路藩を震撼させる一揆にひろがりました。
藩から足軽部隊が出動した。亀山・船場(姫路市)本徳寺も百姓を説得しました。
やがて、一揆は終息。厳しい調べが大坂奉行所で行われ、寛延三年(1750)九月判決が言い渡されました。
野谷新村 伊左衛門 磔刑
滑村 甚兵衛 磔刑 *その他、獄門三名
伊左衛門は六月、大坂の牢で亡くなり、死体は塩漬けにされました。
藩は、塩漬けの伊左衛門を市川河原に引き出し磔にしました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます