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のんびり気軽にさんぽがてら。
源氏については戦国時代でもよく名前も出てくるので先にやりましたが、今回は源氏のライバル、平氏について。
天皇政治を復活を目指す「白河上皇」は”院政”を開始。
源氏を手駒とする藤原氏に対して、上皇は平氏を手駒として対立したのです。
時代は源氏から平氏へ移り変わろうとしていました。
(※今回写真はおじいちゃん「平正盛」の代わりに「平清盛」さんです。)
前九年・後三年の役などによる朝廷の対応を不服とした「八幡太郎義家」の嫡男(実際は次男)、「源義親」は九州にて叛旗を翻していました。
ここで、朝廷は意地悪くもその追討命令を親の「源義家」へと下すのです。
悩んだ「源義家」ですが、やむなくその任に就きます。
しかし、高齢もあって準備中に病を発し、病死。
任務は子で四男の「源義忠」へ引き継がれました。
後を継いだ「源義忠」ですが、彼も父同様に悩んでおりました。
討伐すべき「源義親」は当然ながら兄なのです。
お父さんを見た感じからすると、兄弟それぞれ肉親の情も厚かったと思うんですよ。
実際どうかわかんないけど。
(※ちなみに、「源義親」は自らの討伐に赴いた武者たちを説得して、自軍へ吸収してます。スゴイです。カリスマ性もあった様子)
泣く泣く任務に臣従した父とは違い、「源義忠」には兄を討てませんでした。
そこで、代わりに九州へ赴いたのが「平正盛」だったのです。
この正念場で正盛は見事乱の討伐に成功し、その功績によって但馬守へと就任しました。
こうして出世を果たしたのです、が。
…この討伐は当時から疑問の声が多くあったようなのです。
第一に、討伐後にも「源義親」を名乗る人物が出現していること。
第二に、源家の棟梁たる血筋であり、悪対馬守と呼ばれていた猛将「源義親」に対し、「平正盛」の名がマイナーで実力に大きく開きがあるとされていたこと。
…などです。
当時の資料、右大臣「藤原宗忠」の日記にもそんな記述があるようです。
あるいは、「白河上皇」が彼の地位を引き上げる意味での宣伝・パフォーマンスに過ぎなかったのかもしれませんね。
政治的なドロドロしたもんですよ。
また、彼は河内源氏を継いだ「源義忠」へ娘を嫁がせていたことから、こちらにも外父として発言権が強まっていたのです。
(※こうした可能性もあるので、やっぱり武家の娘ってのは悲劇の対象でなく、両家をとりもつ外交官的な性格が強かったと思うのですよ)
なにはともあれ、「源義忠」以後、内乱(⇒「源義光」参照)などもあって急速に衰退し始めた河内源家に対し、「白河上皇」の知遇を得た「平正盛」、その息子「平忠盛」、孫「平清盛」らへと引き継がれた伊勢平家は逆に勢力を増強させていくこととなるのでした。
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[関連記事] 【 源氏祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <前編>
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
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※華々しい英雄に欠け、
なんとなく悪役っぽいイメージの強い平氏なのでした。
源氏については戦国時代でもよく名前も出てくるので先にやりましたが、今回は源氏のライバル、平氏について。
天皇政治を復活を目指す「白河上皇」は”院政”を開始。
源氏を手駒とする藤原氏に対して、上皇は平氏を手駒として対立したのです。
時代は源氏から平氏へ移り変わろうとしていました。
(※今回写真はおじいちゃん「平正盛」の代わりに「平清盛」さんです。)
前九年・後三年の役などによる朝廷の対応を不服とした「八幡太郎義家」の嫡男(実際は次男)、「源義親」は九州にて叛旗を翻していました。
ここで、朝廷は意地悪くもその追討命令を親の「源義家」へと下すのです。
悩んだ「源義家」ですが、やむなくその任に就きます。
しかし、高齢もあって準備中に病を発し、病死。
任務は子で四男の「源義忠」へ引き継がれました。
後を継いだ「源義忠」ですが、彼も父同様に悩んでおりました。
討伐すべき「源義親」は当然ながら兄なのです。
お父さんを見た感じからすると、兄弟それぞれ肉親の情も厚かったと思うんですよ。
実際どうかわかんないけど。
(※ちなみに、「源義親」は自らの討伐に赴いた武者たちを説得して、自軍へ吸収してます。スゴイです。カリスマ性もあった様子)
泣く泣く任務に臣従した父とは違い、「源義忠」には兄を討てませんでした。
そこで、代わりに九州へ赴いたのが「平正盛」だったのです。
この正念場で正盛は見事乱の討伐に成功し、その功績によって但馬守へと就任しました。
こうして出世を果たしたのです、が。
…この討伐は当時から疑問の声が多くあったようなのです。
第一に、討伐後にも「源義親」を名乗る人物が出現していること。
第二に、源家の棟梁たる血筋であり、悪対馬守と呼ばれていた猛将「源義親」に対し、「平正盛」の名がマイナーで実力に大きく開きがあるとされていたこと。
…などです。
当時の資料、右大臣「藤原宗忠」の日記にもそんな記述があるようです。
あるいは、「白河上皇」が彼の地位を引き上げる意味での宣伝・パフォーマンスに過ぎなかったのかもしれませんね。
政治的なドロドロしたもんですよ。
また、彼は河内源氏を継いだ「源義忠」へ娘を嫁がせていたことから、こちらにも外父として発言権が強まっていたのです。
(※こうした可能性もあるので、やっぱり武家の娘ってのは悲劇の対象でなく、両家をとりもつ外交官的な性格が強かったと思うのですよ)
なにはともあれ、「源義忠」以後、内乱(⇒「源義光」参照)などもあって急速に衰退し始めた河内源家に対し、「白河上皇」の知遇を得た「平正盛」、その息子「平忠盛」、孫「平清盛」らへと引き継がれた伊勢平家は逆に勢力を増強させていくこととなるのでした。
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⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
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※華々しい英雄に欠け、
なんとなく悪役っぽいイメージの強い平氏なのでした。