お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

がんばれ伊勢平氏 (平正盛) 前編

2007年11月29日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
源氏については戦国時代でもよく名前も出てくるので先にやりましたが、今回は源氏のライバル、平氏について。

平安時代後期あたりのこと。
源氏は清和天皇の支流である「清和源氏」が当時の摂関家、いわゆる”摂関政治”で権力を握っていた「藤原氏」と深く結び付いたこと、「八幡太郎義家」を代表とする英雄が登場したことで、武家の棟梁たる地位を確立していきました。
さて、それではライバルとされているもう一方の平氏はどんなだったのか?

源氏と同様で、各天皇からの支流には「なんちゃら平氏」という方々が各地におりました。
そのうち、こちらは「桓武平氏」の血筋で関東を本拠としていた「坂東八平氏」の一員だったのです。
当初は関東におりましたが、そのうち伊勢(三重県)に土着したのが、後に「平清盛」を輩出する伊勢平氏なのでした。

伊勢平氏の祖とされる「平維衡(たいらの・これひら)」は鬼退治で名高い「源頼光」の弟、河内源氏「源頼信」と共に”藤原道長四天王”の一人として知られていた優秀な武士でした。
(※ちなみに、残りの四天王メンバーは藤原保昌、平致頼です)

ただし、勢力・官位共に源氏よりは下でして、いつからか時代の英雄「八幡太郎義家」を輩出して武家の棟梁たる地位を築いた「河内源氏」配下の一武士となってしまうのです。
地位も勢力も、この時点ではそう大したものではなかったんですね。

さて、ここに伊勢平氏当主となった「平正盛(たいらの・まさもり)」という人がおりました。
正盛が後を継いだあたりは、主家である「河内源氏」が多大な戦功で名声を集めていたことから逆に朝廷より警戒され、ちょうど下り坂に差しかかっていた微妙な時期だったのです。

朝廷では”摂関政治”を行っていた藤原氏に対し、天皇政治を復活を目指す「白河上皇」が”院政”を開始。
権力を自らのもとへと引き寄せます。
そんな上皇に、自らの領土であった伊賀の地を差し出したのが伊勢平氏であり、「平正盛」だったのです。
この切っ掛けから、上皇の身辺警護を担当するという「北面武士」へと任ぜられました。

こうして、源氏を手駒とする藤原氏、平氏を手駒にする「白河上皇」という対立構図ができあがったのでした。


[関連記事]  【 源氏祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <前編>
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」

 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


源平合戦の虚像を剥ぐ―治承・寿永内乱史研究 源平合戦の虚像を剥ぐ―治承・寿永内乱史研究
川合 康 (1996/04)
講談社

この商品の詳細を見る

※虚像を剥ぐ、だって。暴露本ですよ。
 まぁ、だいぶ昔のことですからねぇ…。


最新の画像もっと見る