お寺さんぽ Ver.03

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権威好きな英雄 「長尾為景」3

2007年11月21日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は軍神「上杉謙信」の父、見事下克上に成功した越後の傑物「長尾為景(ながお・ためかげ)」さまです。

長森原合戦にて旧勢力の筆頭・関東管領「上杉顕定」を破った為景さま。
ついに越後の実権を握りました。
…が、しかし、事態はほいほいと簡単に進むものではなかったのです。

永正十年(1513)
越後を掌握した為景に、名目だけの守護として擁立されていた「上杉定実」が「宇佐美房忠」らと結んで突如抵抗。
実力の差は歴然としており、これを難無く鎮圧・幽閉に成功するのです。
しかし、傀儡でいてほしかった「上杉定実」との間には決定的な溝が出来てしまいました。

結果として、為景を取り除くことに失敗した反勢力。
しかし、この事件を切っ掛けとして、越後は旧主を慕う諸将の反乱が相次ぐという、不安定な情勢となってしまうのでした。

永正十七年(1521)
為景、その後は越中から加賀にまで転戦を続けています。
一向一揆と結んで抵抗する越中の守護代、さらに父の仇でもある越中「神保慶宗(じんぼう・よしむね)」を滅ぼし、越中の守護代をも奪うなど、勢力拡大に成功しました。

ちなみに、越後(新潟県)は寒い国です。まぁ、知ってるでしょうけれど。
そのため、品種改良などなかった当時は米や作物などの収穫量はかなり少なかったと想像できます。
そんな越後でしたが、戦国期には佐渡を代表とする金山をいくつか発見しておりまして、金の産出量についてはかなりの量があったと言われております。
「上杉年譜」によると、そうして掘り起こした金を朝廷、将軍、公卿、本願寺などに使っていたようなのです。
特に幕府、朝廷への献金は多く、また為景はそれらを尊重していた節があります。
こうした旧権威への傾倒は後に謙信の性格形成にも影響したのではないでしょうか。わかんないけど。

その献金は結果的には実り、「従五位下信濃守」に任ぜられています。
こうして幕府には尊敬の念をみせる為景なんですが、これまで記述してきたように主家・上杉氏への抵抗は激しく、戦うこと百戦に及ぶと言われておりました。

それでも、「宇喜多直家」や「斎藤道三」、果ては「松永久秀」らと違って策略・暗殺などをすることなく、堂々たる合戦で実力を示しているあたり、梟雄というより英雄っぽい人なのではないか、と思います。
ちなみに、「上杉顕定」の子、「上杉憲房」は「長尾為景は二代の主君を殺害した天下に例の無い奸雄である」と評しています。

晩年になると同族の上田長尾氏(※上杉景勝の父で長尾政景の長尾家ね)、上条城の上条氏、琵琶島城の宇佐美氏、本庄氏、新発田氏、など越後の有力国人らの反乱に苦しめられ、遂には長男「長尾晴景」に家督を譲り、隠居にまで追い込まれてしまうのでした。

天文五年(1536)
こうして、内乱にて騒がしい越後を横目に、病を得て死去。
謙信はこの時まだ七歳。
葬式の際、謙信は子供ながら為景の死に乗じての反乱に備え、身を固めていたといいます。

余談ですが…。
為景を酷評していた「上杉憲房」の子「山内上杉憲政」は為景の子、「長尾景虎」こと「上杉謙信」を養子とし、上杉の姓を譲られることとなるのです
歴史って面白いですね。

【 戦国メーター★長尾為景 】
 家柄: ■■■■■ 坂東八平氏です。立派なもんです。
 実力: ■■■■□ 申し分ないですが、結局国内を完全に統一できなかったのでマイナス。
 地理: ■□□□□ 雪国で一揆衆など周囲にも恵まれず、京から遠い。


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