お寺さんぽ Ver.03

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今山合戦と宗教対立する家中 「大友宗麟」5

2006年09月22日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日もキリシタン大名としての認知が高い、「大友宗麟(そうりん)」について。
歴史と宗教が重なる、当ブログ趣旨にぴったり合った宗麟さまの波乱に満ちた生涯をご堪能下さい。


仇敵尼子氏を滅ぼした毛利は再び九州へ進出の機会を窺っていました。
九州の緒将を反大友とすることに成功した毛利は、ついに九州へ上陸。
各地の反対威力と結託して宗麟を窮地に立たせるのです。
これに対し、逆に”周防へ兵を送るという奇策”をもって撃退した宗麟。
九州の地から完全に毛利勢を排除すことに成功したのでした…。


さて、頼みの毛利勢に撤退されると、二年間もの籠城に耐え続けた宝満城らは落城。
反対勢力はことごとく宗麟に降ることとなるのです。
こうして「大友宗麟」は九州九ヶ国のうち、なんと六ヶ国まで支配する大大名となりました。
(※支配は実際のところやや微妙ですが)

元亀元年(1570)
この年、最高潮であった大友家にを落とす大事件が起こります。
これが対「龍造寺隆信」の「今山合戦」です。

大友勢は宗麟の弟「大友親貞」を総大将とした三万という大軍を”肥前の熊”との異名をもつ「龍造寺隆信」討伐に向かいました。
これに対する龍造寺勢はわずか五千程度の兵力で、本拠である「佐嘉城」はたちまち包囲されてしまうのです。
龍造寺は大軍である大友の攻撃によく耐えますが、援軍の見込みがない籠城戦は悲壮感漂うものでした。

ここで、家老「鍋島直茂」が一か八かの”今山本陣奇襲”を進言します。
隆信はこの積極策を採用。
直茂は自ら精鋭を率い、今山にあった大友本陣に決死の夜襲をかけるのです。
この奇襲に完全に不意をつかれた大友勢は、乱戦のなか総大将「大友親貞」が討死
部隊は総崩れとなり、散々な敗北を喫するのです。
この戦いを機会として、龍造寺勢は大いに勢力を伸ばし、大友・龍造寺・島津の有力大名家が九州の覇権を競うこととなるのでした。
九州三国志の開幕です。

天正六年(1578)
ついにキリスト教に帰依した宗麟。
洗礼名は「ドン・フランシスコ」です。
(※ちなみに、天正四年(1576)には嫡男、大友義統(おおとも よしむね)に名目上ではありますが、家督を譲っています。この二頭政治も滅亡の原因と言われる)

ちなみに、珍しい年上の正妻「奈多夫人(なだふじん)」は宗麟と良くなかったようです。
宗麟は人の気持ちを分からない暴君として知られています。家臣の妻を略奪するとか、酒色に耽るなどなど、悪癖があったのです。
これらが、先にもあった家臣・一族が離反する最大の原因と言われております。
さらに、宗麟がキリスト教に傾倒してからは”信仰”を巡って家中が二分されてしまうのです。

この宗教対立に拍車をかけたのが、もともと奈多八幡宮の娘であった夫人の存在でした。
宣教師によって洗脳されていく夫・宗麟、それに従う家臣団。
(※洗脳されていくように見えたでしょう)
この異常事態を深刻に受け止めた夫人はキリスト教・宣教師に対して厳しく接したため、宣教師には悪妻・恐妻と恐れられ、そう喧伝されてしまうのです。
(※実際にそう記述があります)
また、そんな行動によって、もともと神道の象徴のようだった夫人はもう一方の旗頭とされ、大友家中は宗教争いの様相となってしまいました。

この頃になると、政務を拒否し、遊び惚ける、キリスト教に没頭する宗麟を見かねた「立花道雪」が戒めたこともあったようです。
もう、大友家に、宗麟に、家中をまとめるだけの力はなくなっていたのです。

次回は宗麟さまの最後。

⇒ つづく。

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