お寺さんぽ Ver.03

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キリシタン大名と言えば… 「大友宗麟」1

2006年09月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はキリシタン大名としての認知が高い、「大友宗麟(そうりん)」について。
歴史と宗教が重なる、当ブログ趣旨にぴったり合った宗麟さまの波乱に満ちた生涯をご堪能下さい。

たぶん歴史とかで…やったよね?よね?
一般的にはまるで知られていない(笑)か、単にキリシタン大名って認識か、ちょっと詳しい人であれば、そこそこ領地があったのに島津・龍造寺にやられちゃう暴君、って認識でしょう。
そんなもんでしょ?

この人、実際には中国の雄「毛利元就」を手玉に取っている、ものスゴイ策士なのです。
単なる宗教キ●ガイでも、暴君でも阿呆でもないのです。
と、いう訳で、今回ブログはどちらかというと悪玉な「大友宗麟」さまのイメージアップ大作戦なのでした。
ほら、選挙の応援演説みたいなもんよ。
「わが息子ですっ!」 (※タケベ)
…てな感じ。
まぁ、息子ではないんですが。


キリシタン大名として必ず名が出る「大友義鎮(おおとも・よししげ)」さま。
九州は豊後国(大分県)の大名で、有名な「宗麟(そうりん)」は法名なのでした。
(※ややこしいので、以後は宗麟で統一)
ちなみに、享禄三年(1530)生まれというのは、越後「上杉謙信」、毛利元就の次男「吉川元春」らと同級生です。

天文十九年(1550)
宗麟とその父「大友義鑑(よしあき)」の仲はうまくなく、それもあって義鑑は三男・塩市丸に家督を譲ろうとしておりました。

実際、義鑑は反対する家臣を粛清までしていますが、これに重臣らが反発。
宗麟派の家臣団は大友館の二階にいた親子を突如襲撃
当主、義鑑ほか塩市丸とその母(※宗麟の母とは別)らが死去する内乱「二階崩れの変」となるのです。

この時、宗麟自身は湯治に出かけていて、その場には不在でした。間違いなく。
そんな事実から、この乱に宗麟は無関係であるという見方もあるんですね。
…しかし、後の彼を見ていると、どうやら無関係とは言えないと思うんです。

ひでるさんは裏で糸引いていたのではないか、と考えています。先手を打たなければ、下手すると自分が殺されるかもしれませんからね。
血の繋がりある親子でも、当時はそれくらいシビアな世界だったのです。
前に当ブログでやりました「武田晴信」も怪しげに引き継いでいました。

ともかく、宗麟もこうして胡散臭さを残したまま、後を継ぐこととなるのです。
二十一代当主「大友宗麟」がこの瞬間に誕生しました。
当時は宗麟二十歳のことです。

家督相続後は菊池氏を滅ぼしてその守護職を奪い、弟のいる大内家の内戦に介入して、それを滅ぼした毛利家と対立。
宗麟は毛利の二度の侵攻にもよく耐え、窮地に陥っても巧みな外交戦略をもって撃退。
九州北部を有する大大名となるのです。

…次回はそんな宗麟の実力が炸裂する、対毛利戦の模様を詳しくご紹介します。

⇒ つづく。
  今回写真は宗麟ゆかりの京都「瑞峯院」です。

[関連記事]
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]
⇒ 閉眠庭 瑞峯院(京都)


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