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戦国最強軍団の落日 「長篠合戦」5

2006年09月01日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は現代でも議論が尽きない新旧入れ替え戦「長篠合戦」について。
今回がついに最終回ですよ!


天正三年(1575)七月 
ついに運命を決する「長篠合戦」が始まります。

ここで、三千挺の鉄砲を三つに分けて段構えにし、それぞれが交互に撃っていくという「三段撃ち」の策を採用。
馬防柵によって難儀している武田勢を次々と狙い撃ちにしたのです。
突撃を繰り返した武田軍は連続発射される鉄砲の前によって成す術もなく次々と討ち取られてしまうのです。
…と、言うのが従来の説ですね。

まずこの「三段撃ち」なんですが、これまでは…①掃除して、②弾こめて、③発射、という工程を兵が順に行ったという説が主流でした。
(※ひでるさんの力作(笑)、上記↑画像も参照下さい)

…それが、以前テレビだかなんだかでやっていた、”各工程の担当がいて、出来上がった鉄砲のみを前へ渡す方法”だったのでは?
という説がそれっぽいのかなー、とひでるさんは思っています。
人は動かず、準備できた鉄砲だけを前に渡すやり方ですね。
人が前に進んで入れ替わる従来の説では、準備と状況把握に忙しく、狙い撃ちするどころでないでしょう。
それがこちらの説であると、射撃手となる人はずっと撃つだけ、各工程の人も単に同じ作業の繰り返しになりますんで、やりやすいだろう、ということなのでした。


…もっとも、三段撃ち自体が怪しい(なかった)という極端な指摘もあるようです。これだとつまらないですけどね。
いかにも鉄砲の威力をもって武田勢を駆逐したように言われている、新旧交替の代名詞のような合戦なんですが、戦死した各部将は馬防柵付近であまり討ち取られていないという事実もあります。

鉄砲が時の主役ではなかった、そんな雰囲気が強いのです。

大量に揃えた鉄砲を有効活用した、という程度が本当のところなのかもしれません。
(※ちなみに、三千挺の鉄砲からウソだった、という話もあるようですが…)

馬防柵と空堀に阻まれ、難儀していたところに鉄砲隊の一斉射撃。
その轟音に驚いた馬が立ち往生して部隊が混乱。
そこに土塁の後方に控えていた織田勢が一斉に攻めかかり、撃退。
その繰り返し。
でね、そのうち指揮官クラスの武将が戦死したり、撤退する部隊などが出て、総崩れになったところを追撃され、壊滅してしまった。
…というのがだいたいの流れであるようなのです。たぶん。

だいたい、この「長篠合戦」は朝方から昼過ぎまで続いた戦いでして、その間ずっと銃弾の雨に突撃を繰り返した、ってーのはファミコンの対コンピュータ戦みたいでリアリティに欠けると思うのですよ。ええ。

ちなみに、名だたる武将のほとんどが鉄砲に撃たれたのではなく、追撃された際に戦死しています。
要は、彼らは”逃げる勝頼の盾”となっていたのです。

この一戦によって武田勢は山県昌景、内藤昌豊、馬場信房、原昌胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次…など、歴戦の勇将が相次いで討死するという、稀に見る大敗となるのです。

今にも残る鉄砲の話は、
「大量の鉄砲を持ってるんだよ」
「凄い威力なんだよ」
「織田家に抵抗しない方がいいよー」
という、合戦後にばら撒いた信長の宣伝(情報操作)ではないでしょうか?
(※現実に、この戦の後に織田家の傘下となった大名がおります。小寺家とか)

これを切っ掛けとして、武田は急速に滅亡への道を歩むこととなります。
上杉家の内乱に介入し、結果北条家をも敵に回した戦略ミスも響き、七年後の(1582)には天目山にて最後を迎えるのでした。


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武田二十四将 信玄を名将にした男たち

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※今回写真は済みませんでした。鉄砲隊の良い写真がどうしてもなかったもので…。
 分かりづらいよねぇ?


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