お寺さんぽ Ver.03

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またまた翻弄される毛利元就 「大友宗麟」4

2006年09月21日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日もキリシタン大名としての認知が高い、「大友宗麟(そうりん)」について。
歴史と宗教が重なる、当ブログ趣旨にぴったり合った宗麟さまの波乱に満ちた生涯をご堪能下さい。

ポルトガル船の砲撃という仰天作戦によって序盤を有利に展開していた大友勢。
しかし、智将と名高い「小早川隆景」率いる毛利勢が上陸すると事態は急転。
毛利の戦術に翻弄され、なんと敗北してしまうのです。
こうして、一時期は追い詰められていた宗麟ですが、出雲の尼子氏と同盟を結ぶことに成功。
安芸の毛利領を東西より挟撃する体制をつくり、撃退に成功するのでした。
あの毛利元就を手玉にとったのです。
すごいですね!
今回はそんな毛利・大友の激突・第二回戦です。


永禄九年(1566)
門司城攻防戦から五年後のこと。
九州への侵攻を阻んだ宿命のライバル、尼子氏を月山富田城に滅ぼした元就は再び九州への上陸作戦を開始します。
策謀に長けた元就はここで先手を打ち、肥前「龍造寺隆信」、筑前「秋月種実」「高橋鑑種」と言った北九州の緒将に反大友の兵を挙げさせるのです。

特に「高橋鑑種(たかはし・あきたね)」は元々大友一族(支流)で、知勇兼備の将「一万田鑑実(いちまだ・あきざね)」の弟なのです。
要するに、宗麟の譜代家臣に反乱を起こさせているのです。

筑前の豪族、高橋氏には子がなかったため、新たな当主として宗麟が送ったのが「高橋鑑種」でした。
この際には宝満城・岩屋城などを与えられていますから、なかなか信頼が厚かったことが伺えます。
しかし、鑑種にしてみれば、宗麟は”単なる暴君”として映っていたのかもしれません。(※この性格面については後で記述します)
おそらく、毛利方はそういった情報を得ていたのでしょう。
誘いに乗った鑑種は反旗を翻し、宝満城・岩屋城など各城に籠城するのでした。

また、「秋月種実(あきづき・たねざね)」は弟を鑑種へ養子に出すなど、日ごろより絆を深めており、また以前から毛利の支援を受けていた縁もあって、これに同調。
共に出陣した高橋・秋月の連合軍は大友勢を叩き、大いに打ち破ったのです。

さらに、博多港を見下ろす重要拠点「立花城」を守っていた「立花鑑載(たちばな・あきとし)」も鑑種に同調しています。
領内火だらけです。

宗麟は火のついた足元を鎮火するため、それら反旗を翻した豪族・大名の征伐にあちこち翻弄されるのです。
これを好機とみた毛利方はすかさず出陣。
大軍を上陸させた毛利の勢いは凄まじく、「戸次鑑連(へつぎ・あきつら:後の立花道雪)」の活躍で反乱を鎮圧、奪回していた立花城などは再び奪い取られてしまうのです。
勢いそのまま豊後の南へと動きを見せた毛利勢はどうにか撃退したものの、各地で猛威をふるう反乱軍と、大軍を率いる毛利勢によって窮地に立たされてしまうのです。

宗麟、再び大ピンチです!!
しかし、ここでおめおめ引っ込まないのがいい所。

永禄十一年(1568)
どうにも対応に窮した宗麟はここで策を練ります。
以前より庇護していた大内一族の「大内輝弘」に兵を与えると、”大内家再興”を名分に彼らを毛利領・周防国へ密かに逆上陸させたのです。
この動きに、行き場を失っていた大内の遺臣が呼応して一大勢力となり、一時期は周防国を完全に制圧するほどの勢いでした。
また、永禄十二年(1569)には尼子家臣「山中鹿之助」が山陰に攻め込むなど、領内情勢が急激に悪化。

宗麟の奇策と尼子旧臣に仰天した毛利方は、結局九州へ送っていた兵を総撤退させるのでした。

またしても、宗麟はぎりぎりまで追い詰められながら、毛利勢を九州から退けることに成功しました。
以後は二度と九州の地へ踏み込ませなかったのです。

イカスぜ!宗麟さまっ!!
という訳で、次回は大友家の衰退です。

⇒ つづく。

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