故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

退路を断つ

2015-03-26 06:50:41 | よもやま話

やっと、酒気が抜けました。

猫に小判、私に江戸切子てなもんで、
今一つ、切子のガラスコップの良さがわかりません。
手に馴染んでくるのでしょう。
物の良さが解らぬ者にとって、芸術品はやっかいなものです。

いつまでに何をやるから、こうして欲しいと宣言してしまいました。
そうでもしないと、プロジェクトが動かぬからです。
ああ、後に引けなくなりました。やるしかありません。

私は、時々このような無謀な宣言をすることがあります。
神の前で、この人を一生愛し続けます。
言ってしまいました。後悔はないのですが、本当かいな。
と反芻します。言っちゃったんだね。

雲一つない朝がやって来ました。
朝日が入る窓が、90度東に移動していました。
昨日も、駅を一つ乗り越してしまいました。

この頃は、やたら若い時のことが浮かんできます。
いよいよ、私にも記憶オーバーフローがやってきたようです。
新しいことが記憶出来なくなっているのです。
記憶の壺の奥深く納まっている塵のような事柄が、
ふつふつと湧き出してくるのです。

長い間、次から次に詰め込まれた良からぬ記憶と化学反応を起こし、
エッセンスだけになり、きれいな記憶になって現れてきます。

そんなこともあったねと。

セピア色の写真が、カラーではなく、
縁どりだけの記憶になっていくのです。
勝手な想像の人物に置き換わっているのです。
きれいな記憶にすり替えているのです。
こんなことをやってしまうのです。
そのうち、やることがないからこのままの格好でいようかな。
となるのでしょう。

宣言をしたからには、約束を守らなければなりません。
残った酒を、お湯で薄めながらふらふらと一日が始まりました。

2015年3月26日
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けち

2015-03-25 03:57:12 | よもやま話

自分には甘く人には厳しいひとのことを「けち」と思う。
となると、自分も含めほとんどの人が「けち」なのである。

身内には厳しいが外面だけは良い。
要は自分だけが良く思われたいという人のことを言うのです。
しみったれ、不景気、みすぼらしい、手ぬかり、そしていまいましい。
広辞苑には、ネガティブな言葉が連なっていました。

そうは言いますけど、まずは基本的な生き方とも言えます。
まずは、内部を固めていかなければならないのです。
それから外です。少しでも蓄えがないと、気持ちまで萎えてしまうのです。

頭の中だけで考えると、持つ必要はないのです。
無くなれば、取れば良いのです。
なまじ持っているから、防御になるのです。
大して持っているわけでもないのです。これは、飽くまで比較論です。

けちな考え、休むに似たり。

Know-howを出し惜しみします。
良い話を聞いたとしましょうか。
私達は、その人のようには決して出来ないのです。
ただ、自分のレベルで参考にします。
そして、自分なりのKnwo-howが生まれるのです。

裸になれないのです。
どこか奥歯に物がはさまっているのです。

宵越しの金は持たないのが、潔い江戸っ子の神髄でした。
明日は食べるものにも困るかもしれないのです。
しかし、ふるまってしまうのが江戸っ子でした。

「けち」と「けちでない」の中間くらいが良いのでしょうか。
この話はそんなところに落ち着きそうです。

私は、先日仲人さんをお見舞いに行きました。
字を調べたいのだけど、辞書を置いてきた。と言われました。
慌てて引っ越してきた老人ホームには、
本棚を置くスペースはありませんでした。
字が大きく見える辞書をプレゼントしました。
結局、溜め込んだものは何にも役に立たないのです。
担いで動くこともできません。
いやいや銀行に貯金しておけばカード一枚で問題ないと言われるでしょう。
そうですか、円安になったら、インフレになったら金など全く紙切れです。
お金を大事にしないということではありません。

けちの意味の
「しみったれ、不景気、みすぼらしい、手ぬかり、そしていまいましい。」
の反対を生きるのが誰も嬉しいのです。
残念ながら、それは他人が見て思うことです。
自分では気づかないのです。

「けちでない」生き方とは、どういうものでしょう。
捨てることです。潔く捨てることです。
バラまいてしまえということではありません。
昨日の価値は、今日はもう通用しないかもしれないのです。
だから毎日捨てるのです。すっきりします。
こだわりもなくなり、フレッシュになれます。
捨てる勇気と、残った力が必要です。

私達は、昨日に替わる人生を毎日生きているではありませんか。
悲しい時は、思いっきり泣いています。そして忘れるのです。
新しい朝に感謝するのです。今日も生きている。
それだけで良くはないですか。これが基本です。

私は持っていないのです。
但し、毎日ガラクタを溜め込んでいます。
物であったり、者であったりします。

「けちでない」生き方をしたいのです。

2015年3月25日
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心の衣替え

2015-03-24 00:46:56 | よもやま話

頑張ることは良いことです。
そう教えられてきました。
若い人に、そうなんだよと言えない世の中です。

戦争中は必死で、
その後は頑張って日本を立て直してきました。
先輩たちのしてきた仕事です。
私達の年代(昭和20年代後半から30年代前半)は、
頑張る兄貴たちについてきただけの感があります。

価値観がさらに変化し、人生の目標が描きにくくなってきました。
これからはこれだよと言えないのです。
頑張れと言ったつもりが、言い方を間違えると「パワハラ」になります。
グローバル化が叫ばれて永い時間が経ちました。
電気会社は、世界的に白熱する家電競争から脱出し、
インフラ産業の重電にシフトして、一息ついたようです。
日本だけの競争では収まらなくなり、
グローバル化にならざるを得ない状況です。
経済の成り行きに伴って価値観がどんどん変化します。
昨日の王様は、今日乞食になっているのです。

会社は、世の中の縮図のようです。
いろんなことがあります。
テレビで報道されていることのほとんどが当てはまるのです。

組織に左右されない生き方ができないものかと考えています。
組織があって、維持するための考え方を求められるのです。
そんな時代ではないようです。
価値観があって、組織ができる時代のようです。
したがって、組織の中でしか通用しない考え方は早く捨てるべきです。
若い人たちは、自分なりの価値観を持たなければならないのです。
親や先輩の言う価値観は、ぶれているのです。
自分の成功体験しか話せないのです。

そういう時代もあったね。

季節は春です。
一生懸命考え、人の痛みが分かるようにならなければならないのです。
それには、自分にできることを精一杯やることしかないようです。
生きている限り、止まらぬことです。
自分の感性を信じて生き抜くのです。
幸せなど誰も用意してくれないのです。
自分で日々感じることが、明日の原動力になるのです。
生きていることが、価値なのです。

心の衣替えが上手に出来る人が、生きやすいのです。

2015年3月24日
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蜜柑の山

2015-03-23 23:56:49 | 思い出話

塗切らせてなるものかと起きだしました。
ここ3ケ月綴り続けたブログのことです。

伊予かんの美味しい季節です。
沖縄のたんかんは1月が旬です。
初めて食べた時は、あまりの美味しさにびっくりしました。
見た目は、青くてパッとしません。

故郷の島の段々畑は、山すそまで蜜柑の木が植えられていました。
収穫された晩生蜜柑は、コンテナごと1.5mも積まれていました。
私の勉強部屋は、夏は8畳x3室でした。
その3室も、冬は蜜柑の保管場所になり、
私のスペースはわずか1.5畳になりました。
電気こたつと蜜柑の熟れるときに出る熱で暖を取っていました。

喉が渇けば、蜜柑で水分補給しました。
それこそ売るほどあったのです。

午前3時出勤、横浜の我が家への帰宅、夜は友人と遅くまで飲んだり、
今日はパー3x9ホールを4ラウンドしたことなどで、
すっかりリズムが狂いました。
疲れてしまい、夕方には寝てしまいました。
妻に起こされてやっと起きだしたのが今の時間です。

故郷の蜜柑山は、年寄りが食べる量だけのわずかな本数だけを残し、
島を覆っていた蜜柑の木は山すそから順に枯れてしまい、
段々畑は開墾前の山に返りつつあります。
私の勉強部屋も空室です。

観光立国スイスでは、農地を緑に保っていると政府から補助金が出ます。
手っ取り早く牧草を植えるのです。従って丘の上まで緑になるのです。
同じく子供にも政府から補助金が出て、子供が8人もいると
勤務している会社から頂く給料くらいになります。

日本での農業従事者の平均年齢は、とうに60歳を越えています。
経済活性で、農業は変革されようとしています。
補助金の保護政策は徐々になくなりつつあります。
地方創生の政策は、どのように展開されるのでしょう。
間伐材の処理に困っていた林業は、石炭に替わる木材チップ供給産業として
注目されています。木材はすぐにでも不足することになるでしょう。
余った農地にバイオエネルギーになる草が植えられるのでしょうか。
そして枯れた蜜柑畑は、その草に覆われて緑に変わるのでしょうか。
思わぬ展開が起きそうです。

我がブログもなんとか締切時間に合いました。

2015年3月23日
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久し振りの我が家

2015-03-22 07:18:31 | よもやま話

今年も木蓮の花が咲いています。

船のエンジン音が聞こえてきます。
割と大きな船のようです。
波を切る音さえ聞こえてきます。
鳥のさえずりも聞こえてきます。
トンネルを抜ける京浜東北線の音も聞こえてきます。
枕木ごとに刻むリズミカルな音です。

ここの生活音を新鮮なものに感じます。
ここでのルーチンワークをします。
老犬を外に出してやります。朝のお勤めのためです。
近所から話す声が聞こえてきます。おばさんも元気なようです。

これが我が家です。
まずは、洗物とごみの片付けです。
きれいになりました。
美味しいものを食べさせていただいたお礼です。
娘はいつもプレミアムモルツを用意してくれています。
疲れていたのか飲み干せませんでした。

この町の床屋に行きます。
5人いる年配の理髪師のどの方とも顔見知りです。
いつものようにが合言葉です。
もうすぐ、仕事に出かけなければなりません。
息がつける感覚を覚えました。
長年暮らすとは、このことなのだと思います。
誰にもある感覚です。

かみさんに感謝し、子供たちにあいさつをし、
老犬の頭を撫でて、
気持ちよく出かけられます。

2015年3月22日
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