自分には甘く人には厳しいひとのことを「けち」と思う。
となると、自分も含めほとんどの人が「けち」なのである。
身内には厳しいが外面だけは良い。
要は自分だけが良く思われたいという人のことを言うのです。
しみったれ、不景気、みすぼらしい、手ぬかり、そしていまいましい。
広辞苑には、ネガティブな言葉が連なっていました。
そうは言いますけど、まずは基本的な生き方とも言えます。
まずは、内部を固めていかなければならないのです。
それから外です。少しでも蓄えがないと、気持ちまで萎えてしまうのです。
頭の中だけで考えると、持つ必要はないのです。
無くなれば、取れば良いのです。
なまじ持っているから、防御になるのです。
大して持っているわけでもないのです。これは、飽くまで比較論です。
けちな考え、休むに似たり。
Know-howを出し惜しみします。
良い話を聞いたとしましょうか。
私達は、その人のようには決して出来ないのです。
ただ、自分のレベルで参考にします。
そして、自分なりのKnwo-howが生まれるのです。
裸になれないのです。
どこか奥歯に物がはさまっているのです。
宵越しの金は持たないのが、潔い江戸っ子の神髄でした。
明日は食べるものにも困るかもしれないのです。
しかし、ふるまってしまうのが江戸っ子でした。
「けち」と「けちでない」の中間くらいが良いのでしょうか。
この話はそんなところに落ち着きそうです。
私は、先日仲人さんをお見舞いに行きました。
字を調べたいのだけど、辞書を置いてきた。と言われました。
慌てて引っ越してきた老人ホームには、
本棚を置くスペースはありませんでした。
字が大きく見える辞書をプレゼントしました。
結局、溜め込んだものは何にも役に立たないのです。
担いで動くこともできません。
いやいや銀行に貯金しておけばカード一枚で問題ないと言われるでしょう。
そうですか、円安になったら、インフレになったら金など全く紙切れです。
お金を大事にしないということではありません。
けちの意味の
「しみったれ、不景気、みすぼらしい、手ぬかり、そしていまいましい。」
の反対を生きるのが誰も嬉しいのです。
残念ながら、それは他人が見て思うことです。
自分では気づかないのです。
「けちでない」生き方とは、どういうものでしょう。
捨てることです。潔く捨てることです。
バラまいてしまえということではありません。
昨日の価値は、今日はもう通用しないかもしれないのです。
だから毎日捨てるのです。すっきりします。
こだわりもなくなり、フレッシュになれます。
捨てる勇気と、残った力が必要です。
私達は、昨日に替わる人生を毎日生きているではありませんか。
悲しい時は、思いっきり泣いています。そして忘れるのです。
新しい朝に感謝するのです。今日も生きている。
それだけで良くはないですか。これが基本です。
私は持っていないのです。
但し、毎日ガラクタを溜め込んでいます。
物であったり、者であったりします。
「けちでない」生き方をしたいのです。
2015年3月25日