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故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

2015-01-23 05:46:43 | 思い出話

大学に入る浪人時代、新婚時代と私は、褌の愛用者でした。

汗かきの私は、一日に何回も下着を取り換えなければなりませんでした。
ある日、故郷でのこと。下着がそこをつきました。
母に父の褌を出してもらい、人生初の試着をしました。

スースーして快適でした。
それ以来病みつきになりました。

社宅では、子供のおしめの間に干してありました。

学生時代、キャバレーでボーイのアルバイトをしている頃、
お客さんで、褌をしている人が来られました。
ちょっとだけよと始めたにわかストリップが、
積極的に褌一丁になりました。
私は、その前隠しをささげ持ち、後ろを付いていくのでした。
前はすっぽんぽん、お姉さんたちに大うけでした。
ある日、出勤して店の制服に着替えているときに、
お姉さんの一人に覗かれました。
あんたもかい。だから、褌の扱いが上手だったのね。
その日は、お姉さんたちの間で褌男と騒がれました。

実に便利なもので、銭湯に入ってタオル代わりに使用し、
同時に洗濯も済みました。
時々ゆるくなって、作業つなぎの下から前周りがちょろっと出ていたりして
愛嬌たっぷりだったのです。
何の時も、ティッシュ替わりです。

子供が、おしめからパンツに変わる時に私の褌もいつしかお払い箱にされました。

2015年1月23日
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いろんな山歩き

2015-01-23 05:25:56 | 思い出話


その日、私は韓国岳を下り温泉場にいました。
東大の原生林を抜けた山の中腹にその温泉はありました。
熊本の八代市から人吉を抜けて、えびの高原から南に下ってきました。

5人位は、入れそうなサウナ小屋に大の字に寝そべって旅の疲れを癒していました。
大学に入って二年目でした。
おやおや、おばさんたちがどやどやと入ってきました。総勢5人。
よく喋りました。全員裸でした。
無防備な私は、背を向けて寝たふりをするしかありませんでした。
もう出ようと思っていた矢先でした。あらゆる興奮でぶっ倒れそうになりました。

私の山歩きは、単独行でした。
30Kgの装備を担ぎ、一日30Kmを歩くのが決まりでした。
そして、使える費用は500円。
その500円は、食べるものに変わったり泊まるところになりました。
いわゆる貧乏学生の山歩きでした。

道志川沿いに歩いてきた5日目は、とうとう泊まるところが見つかりませんでした。
3月といえど、このあたりの夜は、氷点下を記録する日もありました。
どこかで、横になりたくて夜中の12時を回ったころ
河口湖畔でボート小屋を見つけ入りました。
テントを被りウイスキーで身体を温めました。

寒さで寝られませんでした。
棒を持った数人の男たちが大きな声で話しているのが聞こえました。
身を固くし、息をひそめました。私は、村の青年団と勘違いしていました。

朝日が出て、あたりを見渡すと、もやがかかった湖面にボートがたくさん出ていました。
棒と思ったのは、釣り竿で、皆さんボートをとりに小屋に近づいて来たのでした。

今思えば、珍道中でした。

マムシを生産しているコンクリートの塀のそばのバンガローに格安で
泊めてもらったりしました。
河口湖の前の町では、小学校が駄目でお寺が駄目で、立ち寄った店の女主人が
公民館に掛け合ってくれました。
そこには、立派な角を持った鹿がはく製で飾られていました。
村人が追いかけて、舗装道路を逃げ回って蹄が熱を持ち、泡を吹いて死んだとのこと。
だから、獣は沢沿いに逃げる話も聞きました。
蹄を澤の水で冷やしながら逃走する4つ足動物を想像したものでした。
臭いを消す意味もあったのでしょう。

寺に泊めて頂いたときは、広い境内を履き、長い廊下の雑巾がけをしました。
当然のことでした。
誰が、見ず知らずの男にご飯を食べさせ、一夜の寝具を貸してくれるでしょうか。

それでも旅を続けました。

2015年1月23日
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横須賀の石仏

2015-01-22 04:29:35 | 思い出話
 ひっそりと今日も見守る石仏

横浜氷取沢から入り、山伝いに尾根道を縦走して鎌倉に行ける道があります。
かみさんと愛犬ジンとよく歩きました。かみさんも私も山歩きが好きでした。

その日は、チョコレートとカレンダーを届けるのが目的でした。
鎌倉在住の仕事の恩人宅は竹寺の近くでした。

たまたま、エンジニアリング会社での先輩にお会いしました。
鎌倉に入った最後の登りのところでした。
私は、忘れていたのに親切に声をかけてくれました。
たまたま、複数持参したチョコレートの一つをあげました。

時は経って、そのエンジニアリング会社を最後の仕事場にしようと再入社しました。
すると、山でお会いした先輩も同じ事務所にいらっしゃいました。
すぐに私に声をかけてくださいました。

今度、山に一緒に行こうと。
京急田浦から入山し、横浜、鎌倉と横須賀の山をルートを決めて歩くのでした。
そして、また出発地に帰りました。
約7時間で、歩く距離25Km、高低差1000mでした。
ここら辺の山は高くても200mですから、1000mの高低差をやるとなると、
沢歩きの後はやぶこきしながら直登するような道程となりました。

田浦駅からほどなく入った琉球料理の居酒屋が反省会の場所でした。
泡盛ではなく、ビールに日本酒でした。
私にとっては、少々ハードでした。全員先輩でしたが、山歩きのベテランでした。
どの方も強いのに優しかった。

ある時、その三市の連なった山々に点在する石仏5体を訪ねる山歩きをしました。
どの石仏も高さ50cm未満でした。冒頭の絵は、その時出会った石仏です。
普段の訓練不足で、膝や腰を次から次に痛め、山歩きに参加できなくなりました。

今は、奥多摩の玄関口に住んでいます。
登山靴も持参しました。妻にもプレゼントしました。
腰を痛め、温泉治療に行く途中、多くの年配者のハイカーに出会いました。
皆さん、笑顔でした。

私も今年は山に行きたいと思っています。

2015年1月22日
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コーヒーシュガー

2015-01-21 03:58:02 | よもやま話
  毎日通いました(宇品港から望む)


毎日、コーヒーを10杯飲みます。

若い頃は、コーヒー牛乳が好きでした。
学生時代、銭湯に行った風呂上がりに、腰に手を当て飲んでました。
コーヒーは苦くて飲めませんでした。

かみさんと初めてデートしたのは、銀座のタクトでした。
木の床を歩くのがおしゃれでした。外壁一面の蔦の葉が印象的でした。
一杯のコーヒーがお酒に変り、いつしか仲が良くなっていたのでした。

妻との出会いもコーヒーです。
顆粒のコーヒーシュガーは、清楚で上品な味がしました。
熱いコーヒーに入れた時のパチパチとはじける音に恋の予感がしました。

タイに出張した折、インドネシアの若者から、
えらく高くてとても旨いコーヒーがあると教えられました。
インターネットで調べたら、「コピ・ルアク」のことでした。
ジャコーネコがコーヒー豆を食べ、消化された後、糞から採集されたものだとか。
こんなに高級なコーヒーはどんな味がするのでしょう。

ヨーロッパの事務所では、もっぱらエスプレッソでした。
砂糖は入れませんでした。
私は炭酸水とともに、馴染めませんでした。
足の長い彼らが、小さなカップを片手に飲む姿は様になりました。
持参した高級煎茶に砂糖を入れて飲んでいました。

沖縄で見学した砂糖工場では、サトウキビを粉砕し
液糖をドリップさせながら乾燥していました。
乾燥用燃料は絞った後のサトウキビでした。
沖縄本島には、もう2工場しか残っていませんでした。
黒糖を本土に売って精製するのだそうです。
素晴らしい設備でしたが、もうかってなさそうでした。

コーヒーシュガーを買って来てくれました。
私は、赤土に生えたサトウキビの林を思い出しています。
短く切ったサトウキビをかじった小さい頃は、歯が丈夫でした。

コーヒーシュガーは、今でも私を特別な気持ちにさせてくれます。

2015年1月21日
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縒りを戻す

2015-01-20 07:13:13 | よもやま話
  縒りを戻す旅 

藍色と茜色の朝ぼらけに圧倒されました。

数日前に、友人はパプアニューギニアへ仕事で出かけるとメールがありました。
モザンビークの先輩は、豪雨の中無事に過ごされているでしょうか。
仕事は順調でしょうか。もう1月も後半戦です。帰って来られるのはいつになるのでしょう。
沖縄に夫婦水入らずで出かけられた先輩は楽しくやってるでしょうか。羨ましい。

今日のタイトルは、「縒りを戻す」です。
家族の中で、変わり者がいるとなんとなくぎごちなくなります。
関係ももつれてきます。
どうして、この言葉が気になったのでしょう。
私は、昨日家族をほったらかしで自分だけ楽しんできたのです。
いつもより言葉が少ない妻に気を使っているのでしょう。

別れた男と女が縒りを戻す。
最後は憎しみ合って別れた。
数年後に街でばったり出会い、その後について何となく話し始める。
はじめは気まずいでしょう。
しかし、一緒に過ごした時間の中には楽しいことも含まれていました。
相当にエネルギーがいることと察しがつきます。
そしてまた一緒に暮らし始める。
こんなことが起きるのです。

妻は、ブログに集中している私に気遣ってくれているのです。
いつまでも怒っているわけではないのです。
ちくちくと言葉に棘があるように感じます。

仲の良い夫婦でも、よく喧嘩をします。
皆さんの仲直りの秘訣はなんでしょう。

私の家でも、長い間兄弟間で確執があります。
小さい頃には、くっついて仲良く遊んでいました。
夫婦の喧嘩より始末が悪いようです。
多分、利害関係がその後生じたからだと思います。
あるいは、平穏な生活を脅かされたからだと思います。

糸を強くするために、糸を縒ります。
そんなことであって欲しいと思います。

藍と茜の闇は、いつしか温かい日差しに変わっていました。
そして容赦なく一日が始まりました。


2015年1月20日
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