故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

空調の師匠

2015-01-07 05:05:55 | プロフェッショナル

工場の冷房負荷は、250Kcal/m2です。
事務所は、80Kcal/m2です。

どちらも一般的な数字です。
最初に工場を造った時に、事務所と同じより少し上の100Kcal/m2で設計しました。
トータル30,000Kcalの空調システム(エアハンドリングシステム、AHU)を
入れました。当時の空調担当者は不足なら足せばよいという考え方でした。
結局、倍の60,000Kcalになりました。

潜熱負荷(手洗い、シンクなどの蒸発僭越)も計算に入れてないから熱量不足です。
工場内で回る洗い立ての番重は熱(60℃)の塊で、おまけにしずくが付着していました。
当然、その負荷は考慮していませんでした。後からカーテンを付け熱を遮断しました。
AHU空調のアンバランス(工場は良いが、事務所は寒い)も多くありました。
浮遊する粉や油のフィルタリングも上の方に設置したため掃除ができませんでした。
天井カセット式の室内機は、常に高温側が結露しました。
天井内換気が機能せず、冷凍庫の周りの壁は、付いた黒カビが取れませんでした。
冷凍庫内に設置した触れ止めの断熱処理が適切でなかったため、天井内が水浸しになりました。
凍上防止管内に氷が付着し、冷凍庫内の自動倉庫が浮き上がりました。
15mmも上昇し、自動倉庫は使えなくなりました。
断熱壁の下端と不陸の床の隙間処理がされてなく、断熱壁の周りに巻いた巾木は
常に結露していました。
給気と排気のダクトが近すぎたため、ショートカットし排気熱をまた室内に取り込むことも
ありました。工場内の陽圧なんて、夢の夢でした。
フライヤー上に設置したフードの面速が0.4m/sec以下で、常に排煙が
フードから漏れていました。
ユーティリティー配管は、空調業者に任せられませんでした。
蒸気管の伸び(140℃の蒸気で、10mで15mm/m伸びる)対策が適切でなかったため、
150φの蒸気管は規制ガイドから大きく外れていました。
おまけに溶接技術が悪いから、溶接個所にクラックが入り蒸気が漏れていました。

とにかくいっぱい失敗しました。

ある時、おにぎりの冷凍食品を作る工場のチェックを依頼されました。
私は、レイアウト(ゾーンニング)を中心に、物流動線と人動線の交差汚染をチェックしました。
一緒に行って下さった空調の師匠は、冷凍機負荷や-40℃のおにぎり冷凍ラインの周りに付着した
氷の状態を見ていました。案内と説明をいただくこと1時間。
二人は、あっという間にレポートを書き上げました。指摘箇所は100項目以上、すべてに原因と対策が
書かれていました。診る人には不良個所が向こうから飛び込んでくるのでした。

空調の師匠とは、20年来の友人になりました。空調で困ったことがあると、相談しました。
師匠の会社に行き、自分で計算した結果と問題点を診てもらいました。
師匠は、やっていた急ぎの仕事を置き数時間も付き合って下さいました。
私はその結果を持って、商売(工場建設)をしました。

師匠への相談も、一緒に行ったコンサルタントも、私が提供した空調に関する
レポートもすべて無償です。お金に換算出来ないのです。だから無償です。
いつか商売として回ってきます。師匠も私もそのことはよく知っています。

師匠から相談を受けました。
今友達のように付き合っている女性がいるんだけど、打ち明けた方がよいかな。

私の答え。これから先そんなに長くないんだから、悔いのないようにされたらいかがですか。
こればっかりは、プロフェッショナルとはいかない師匠でした。

2015年1月7日
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我田引水

2015-01-07 03:16:46 | 思い出話

島では、とんでも無いことが起きました。

父が真夏の真夜中に起きだして、湧き水のある場所まで闇夜の中を行きました。
時間で自分の田の方へ水を引き込みました。
そういう取り決めなのですが、時々あらぬ方向へ流れていました。
小さな湧き水からの水は、一塊の泥で流れが変わりました。
父は、涼しい湧き水のそばでしばし休んでいました。
暗闇の中で、足音がしました。父の煙草の火を見たのか引き返して行ったそうです。

とんでもないことと言えばこんなこともありました。
秋祭りの日に起こりました。

山の衆が、海の衆を神殿に上げようとしませんでした。
乱闘となり、一人が死んだと聞いています。
新聞にも載ったらしい「だいば(天狗)事件」です。
私は、海の衆の子供達とも仲が良かった。
父は、時々遊びに行ってはいけないと言っていました。
訪ねてくる友人たちに、母は腹いっぱいご飯を食べさせていました。

同窓会でのこと。ある友人が私に言いました。
お前の家へ行くのが楽しかった。
腹いっぱいの銀シャリが食えたから。
私は知りませんでした。

夜明け前、その友人が運転する船がいかだに着きました。
まだ、中学生でした。
夜明けまでのほんの一時間の間に魚箱4杯の鯵が釣れました。
彼は、私に全部持って帰れと言いました。一箱いただきました。
家族6人でも食べきれない魚は、から揚げにして酢漬けにされました。

山の衆の娘が、海の衆の男と結婚しました。
娘は、勘当されました。子供が生まれしばらくして解かれました。
私達の島には、触れてはいけないタブーがありました。
西のほうでは、時々聞いた話です。

今でも、無くなったとは言えません。
しかし、教育のおかげで、子供達は自由に行き来しています。

子どもには知りようもなかった哀しい話です。

2015年1月7日
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