いきものがかりの「ありがとう」を聴きながら書き始めました。
私は、これまでも何回か観念してきました。
観念とは、「観察し、思念すること」と広辞苑に出ています。
私にとって、観念とは覚悟のようなものではないかと考えました。
もう後退ざり(あとしざり)はできない。
では覚悟とは。
「迷いを去り、道理を悟ること」と同じく広辞苑に出ていました。
彼女だった女の人を、奥さんにした日、
二人だけの家族に、新しい命が誕生した日でも、観念も覚悟もありませんでした。
若い時は、逃げてばかりでした。迷ってばかりでした。
あれこれとやっていくうちに、観念し覚悟したように思います。
頭で考えても出てきませんでした。
今思い返せば、あの時から腹が据わったのではないかと考えます。
あの時とは、特定もできないし、きっかけもなく漠然としています。
30代後半でしょうか。
生きることは楽しいと気づきました。
自分にできることは、限られていると感じました。
迷うことは、なくなりました。
自分の言葉で考え、感じるままに生きる方向をつかんだのではないかと思います。
それからは、「観念」や「覚悟」を身近に感じるようになりました。
この頃は、観念や覚悟は自分の中だけにしようと心がけています。
説教臭くなるからです。威圧的になるからです。
表面は、心優しい爺様でいたいのです。それは、誰もがいつか通る道です。
そして、道遠しです。
2015年1月11日