故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

縁は異なもの

2015-01-23 06:17:06 | 思い出話

縁は異なもの味なもの

男女の間の縁について言う言葉のようです。

学生時代、秋葉山から天竜に降りました。
歩き旅を始めて、ちょうど二週間が経過していました。

古刹の寺を訪ねました。
どなたかなと、少し狸顔のきれいなおばさんが尋ねました。
住職の奥さんでした。
学生証が功を奏し、泊めてもらえることになりました。
以前にも書きましたが、息子さんの友達で優秀だった方が
私の同窓だったのです。

先に、風呂に入ってくれますか。
玄関を上がる前の奥さんの一言でした。
私は、二週間風呂に入っていませんでした。

その日から、これまで40年のお付き合いの始まりでした。
時々、訪ねました。寺男のように使われました。
煙突掃除に、広い境内の草取り、落ち葉掃き、犬の散歩。
あらゆる雑務がありました。
夕方の美味しい料理にお酒が付きました。
とても嬉しくて足しげく通うようになりました。

時は経ち、私も結婚適齢期になりました。
いつまでも独身はいけないとお見合いを世話してくれました。
相手は、吉祥寺の工務店の一人娘さんでした。
それだけの情報で、相手の写真も見ていませんでした。
人生唯一のお見合い話でした。
見事、書類選考で落とされました。
私は、自作の小説も釣書に同封しました。
自分では、出来が良い方だと勘違いしていたのでしょう。

更に時が経ち、自前でかみさんを見つけてきました。
いっしょに訪ね、「仲人」をお願いしました。
快く引き受けてくださいました。
これも過去ブログに載せました。
タイトル名「人生最良の日」のくだりになるのでした。

住職は、大きな体で、大汗をかきながら唯一私のことを褒めあげてくれました。

「新郎は、近年の若者には珍しい熱血漢で、優秀な努力家です。
寺を訪ねる時は、必ず広い境内をくまなく掃除をしてくれたり
傷んだ箇所を直してくれたり今時珍しい好青年です。」

であったかどうか。
さらに時は経ち、狸顔の奥さんも今は80歳になられました。
いまでも、あの時の「先にお風呂に入ってくれますか。」は忘れられません。

山歩きも悪くない。

人との出会いが、人生最良の日です。

2015年1月23日
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2015-01-23 05:46:43 | 思い出話

大学に入る浪人時代、新婚時代と私は、褌の愛用者でした。

汗かきの私は、一日に何回も下着を取り換えなければなりませんでした。
ある日、故郷でのこと。下着がそこをつきました。
母に父の褌を出してもらい、人生初の試着をしました。

スースーして快適でした。
それ以来病みつきになりました。

社宅では、子供のおしめの間に干してありました。

学生時代、キャバレーでボーイのアルバイトをしている頃、
お客さんで、褌をしている人が来られました。
ちょっとだけよと始めたにわかストリップが、
積極的に褌一丁になりました。
私は、その前隠しをささげ持ち、後ろを付いていくのでした。
前はすっぽんぽん、お姉さんたちに大うけでした。
ある日、出勤して店の制服に着替えているときに、
お姉さんの一人に覗かれました。
あんたもかい。だから、褌の扱いが上手だったのね。
その日は、お姉さんたちの間で褌男と騒がれました。

実に便利なもので、銭湯に入ってタオル代わりに使用し、
同時に洗濯も済みました。
時々ゆるくなって、作業つなぎの下から前周りがちょろっと出ていたりして
愛嬌たっぷりだったのです。
何の時も、ティッシュ替わりです。

子供が、おしめからパンツに変わる時に私の褌もいつしかお払い箱にされました。

2015年1月23日
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いろんな山歩き

2015-01-23 05:25:56 | 思い出話


その日、私は韓国岳を下り温泉場にいました。
東大の原生林を抜けた山の中腹にその温泉はありました。
熊本の八代市から人吉を抜けて、えびの高原から南に下ってきました。

5人位は、入れそうなサウナ小屋に大の字に寝そべって旅の疲れを癒していました。
大学に入って二年目でした。
おやおや、おばさんたちがどやどやと入ってきました。総勢5人。
よく喋りました。全員裸でした。
無防備な私は、背を向けて寝たふりをするしかありませんでした。
もう出ようと思っていた矢先でした。あらゆる興奮でぶっ倒れそうになりました。

私の山歩きは、単独行でした。
30Kgの装備を担ぎ、一日30Kmを歩くのが決まりでした。
そして、使える費用は500円。
その500円は、食べるものに変わったり泊まるところになりました。
いわゆる貧乏学生の山歩きでした。

道志川沿いに歩いてきた5日目は、とうとう泊まるところが見つかりませんでした。
3月といえど、このあたりの夜は、氷点下を記録する日もありました。
どこかで、横になりたくて夜中の12時を回ったころ
河口湖畔でボート小屋を見つけ入りました。
テントを被りウイスキーで身体を温めました。

寒さで寝られませんでした。
棒を持った数人の男たちが大きな声で話しているのが聞こえました。
身を固くし、息をひそめました。私は、村の青年団と勘違いしていました。

朝日が出て、あたりを見渡すと、もやがかかった湖面にボートがたくさん出ていました。
棒と思ったのは、釣り竿で、皆さんボートをとりに小屋に近づいて来たのでした。

今思えば、珍道中でした。

マムシを生産しているコンクリートの塀のそばのバンガローに格安で
泊めてもらったりしました。
河口湖の前の町では、小学校が駄目でお寺が駄目で、立ち寄った店の女主人が
公民館に掛け合ってくれました。
そこには、立派な角を持った鹿がはく製で飾られていました。
村人が追いかけて、舗装道路を逃げ回って蹄が熱を持ち、泡を吹いて死んだとのこと。
だから、獣は沢沿いに逃げる話も聞きました。
蹄を澤の水で冷やしながら逃走する4つ足動物を想像したものでした。
臭いを消す意味もあったのでしょう。

寺に泊めて頂いたときは、広い境内を履き、長い廊下の雑巾がけをしました。
当然のことでした。
誰が、見ず知らずの男にご飯を食べさせ、一夜の寝具を貸してくれるでしょうか。

それでも旅を続けました。

2015年1月23日
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