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日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「ビーガンとハラール」そして精進料理

2019-11-11 19:44:52 | ビジネス

日経新聞のWEBサイトをみていたら「ビーガン(=完全菜食食)」の記事があった。
日経新聞:完全菜食ビーガンの可能性 34億人市場の入り口に

「ビーガン」と呼ばれる肉や魚だけではなく鶏卵や牛乳などを食べない菜食主義の人たちが、観光などで訪れた時の食事の問題を提議した記事だが、個人的にはさほど心配することではないのでは?という気がしている。
何故なら、日本には「精進料理」と呼ばれる肉や魚は当然、鶏卵や牛乳などを使わない料理が、古くからあるからだ。
確かに、旅行者が訪れるような観光地には「精進料理店」が多いとは思わないが、「精進料理の本」は書店で数多く見かけることができる。
私も、お盆の料理をつくるため購入し、お盆の時には参考にしている。
「精進料理」と言っても、現代的にアレンジされたお料理も多く、「精進料理=和食」では無いような提案もされている。
日本料理店でなくても「精進料理のレシピ」は、参考にできる内容が多いはずだ。

問題があるとすれば、食事をする場所よりも日常生活で購入する様々な食品(カップ麺やスナック菓子を含むおやつ)などが、「ビーガン向け」となっていない、ということだと思う。
工業製品化された食品の場合、製造ラインの都合上、鶏卵や牛乳などを完全に排除することはできない。
それは、カップ麺やお菓子の裏側に書いてある「アレルギー表示」を見ればわかる。
「ビーガン向け」の専用製造ラインをつくるのは、企業側にとっても負担が大きいだろう。
それが「ビーガン向け食品」が一般化しない、最大の理由なのでは?

日経では「34億人」という大きな数字をインバウンドの数字として挙げているが、果たして34億人のビーガンが日本に来るのか?と言うと、話は違うはずだ。
日本に来る為に飛行機などを利用する必要がある場合、搭乗する飛行機会社が提供する機内食も「ビーガン向け」のものでなくてはならない、ということになる。
そこまでして、オリンピック観戦の為に来日する海外の観光客はどれほどいるのだろう?という、疑問もある。
むしろ問題となるのは「ハラール食」なのではないだろうか?

「ハラール食」と呼ばれるイスラム教にのっとった「食品」は、日本でも徐々に増えていると感じている。
近所のスーパーで見つけたこめ油のパッケージには、アラビア語と日本語で「ハラール対応」と表示されていた。
随分遠い話だと思っていた「ハラール食」のほうが、身近な問題なのだと実感した。

しかし「ハラール食」について、どれだけ社会的理解が進んでいるのか?と言うと、話は別だろう。
「ビーガン」のような、完全菜食であれば排除するものも、分かりやすい。
もしかしたら「アレルギー対応食」のほうが、大変かもしれない。
それに対して「ハラール食」というのは、宗教というバックボーンを知る必要がある。
日本では馴染みがあるとは思えない、イスラム教という文化を知り、その上で食材を調達し、調理をする必要があるからだ。

インドネシアは身近な国ではあるが、イスラム教徒の多い国としても有名で、観光で来日する人達だけではなく、仕事を得る為に来日する人達も少なくないはずだ。
とすれば「ビーガン」よりも「ハラール食」についての理解を進めるほうが、先のような気がするのだ。

 




芦田愛菜さんの祝辞から考える「日本語」と読書

2019-11-10 08:25:49 | 徒然

昨日、「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」が、夕刻から夜にかけてあった。
その中で、芦田愛菜さんの祝辞の素晴らしさが、話題になっている。
オリコン:芦田愛菜、天皇陛下へ祝辞 約2分半゛秀逸な言葉選び”堂々たる姿で御即位をお祝い

芦田さんが、まだ中学生であるということを忘れるほど、立派な祝辞だった。
何より、記事にもあるように「言葉の選び方」だけではなく、祝辞を述べる姿も素晴らしいものだった。
その中で特に気を引いたのは、「御心」の読み方だ。
芦田さんは「みこころ」と、読まれていた。
記事に書かれている原稿では「御心」と書かれている。
話しのプロと呼ばれるアナウンサーさんでも、最近のお若い方などは「おこころ」と読んでしまうのでは?と、思われる部分だった。

「正しい日本語」という気はないが、「おこころ」と「みこころ」とでは、同じ漢字であっても読みが違うことで、その言葉の持つ意味も違ってくる。
「みこころ」は、「他人の心を敬う」という時に使われる。
「おこころ」は「相手を敬って、その気持ち・考え・思いやりなどを言う言葉」とされる。
いずれも「敬う」という点では一緒だが、「みこころ」には「心を敬う」のに対して、「おこころ」は「相手を敬う」という微妙なニュアンスの違いがある。
芦田さんは「みこころ」と言う言葉を使うことで、「天皇陛下の心(あるいはお考え)を敬う(そして共感し、心を共にしたい)」という表現をしたのだ。

このような微妙なニュアンスの違いを、使い分けるということはとても難しい。
しかも最近では、日本人の1/3は「日本語が十分理解できない」という、調査まで発表されている。
文春オンライン:言ってはいけない!「日本人の3分の1は日本語が読めない」

基本、「日本語を使う人=日本人」ということになると思う。
その「日本語」を読めない日本人が3分の1もいる、というのは、衝撃的なことだ。
あくまでも個人の感覚として「日本語の理解が違う人が増えている」と、感じることが多くなってきている。

拙ブログで紹介させていただくことが多い、大阪ガス・エネルギー文化研究所の池永さんはコラムの中で「コンテクト(文脈・背景)が読めない人が増えている」と指摘をしている。
と同時に、TwitterをはじめとするSNSの普及で「長文を書くこと。読むことが無くなった」と、重ねて指摘をしている。
COMEMO:インド人はなぜカレーを食べなくなったのか?

コラムそのものは、日本語力の問題を指摘しているわけではないが、「文脈や背景が読めない」ということや「長文を読むこと・書くことが無い」ことの一因は、読書量の問題のような気がしている。
というのも、私自身中高校生の頃、相当量の本を読んできたからだ。
小説だけではなく、岩波新書のような本も併せて貪欲なほど読んだことで、語彙力や思考力、文字ではなく文脈となる「行間を読み込む」ということを自然に学んだ気がするからだ。

そして、昨夜の芦田さんの祝辞を述べられる姿を見て、改めて読書の大切さを感じたのだった。

 


ファッションの変革期かもしれない

2019-11-08 18:49:41 | トレンド

新聞各社の記事には「ファッション」の欄がある。
各社の記事を読むことは、それぞれの視点の違いなどが分かるようで、興味深いものがある。
今日、朝日新聞のファッションの記事に、意外な組み合わせの人物インタビューが掲載されていた。
朝日新聞 &インタビュー:ドリス・ヴァン・ノッテン×クリスチャン・ラクロワ 2020年春夏の新作をクリスチャン・ラクロアと協業で

このタイトルを見た時、2つのことが思い浮かんだ。
一つは「ファッションデザインでも協業という、アイディアがあるのか?」という疑問だ。
もう一つは、ヴァン・ノンッテンとラクロアという意外な組み合わせが見せるファッションとはどのようなものか?という、好奇心だった。

まず、協業という点だ。
今回協業をしたのは、ドリス・ヴァン・ノッテンとクリスチャン・ラクロワという、2人のデザイナーだ。
メンズコレクションからスタートしたドリス・ヴァン・ノッテンは、テーラードが上手いデザイナーと言われてきた。
対してクリスチャン・ラクロワは、南仏出身らしく美しい花々のプリントや、繊細な手仕事のレースなど、レディースファッションの中でも、ひときわ華やかで、ロマンチックなデザイナーという印象があったからだ。
その二人が、協業するとなると、デザイナーとして互いに相容れられないコトが多々あるのでは?と、思ったからだ。

しかし、インタビューを読むと「商売重視の工業製品に成り下がっている」と、互いに感じ合っていたことが、この協業を成功させたのだろう。
ラクロワのように、ファッションの世界から身を引き10年も経つと、今のファッションがつまらなく思えたのかもしれない。
確かに、ラクロワの創り出してきたファッションは、今彼が活躍をしている舞台衣装のほうが向いていると思うし、だからこそ今のファッション業界が、デザイナーの創造の場ではなく「商売重視の工業製品」と第三者的視点で、強烈に感じていたのかもしれない。

二つ目の意外な組み合わせ、という点についてもインタビューを読むと納得する。
2020年の春夏コレクションでは「サスティナブル(持続可能)」をキーワードにした、デザインが多かったという。
結果、色調などが似たり寄ったりなデザインが、多かったという話も聞いている。
ラクロワがデビューした1980年代後半は、それこそ「百花繚乱」のような、個性のある色・デザインであふれていた。
いくら「サスティナブル」がトレンドだとしても、二人にとって我慢ならなかった、ということだろう。
おそらく違う言葉でいうなら「ボタニカル(植物などからイメージを得たプリントなど)」かもしれない、と感じたのだ。

ファッションも、「環境」に敏感でなくてはならない時代になった。
だからと言って「環境」に名を借りた「商売重視の工業製品ファッション」への抵抗が、協業というカタチになったのだとすれば、ファッション業界そのものが、大きく変わり始めているのかもしれない。
それはファッションデザイナーが、本来あるべき「創造性」を持ったファッションへの回帰と環境問題への取り組み、ということのような気がしている。



「プラスサイズ・モデル」の登場は、多様性につながるか?

2019-11-06 19:04:28 | トレンド

Huffpostに、アメリカのミュージカル「ヘアスプレー」を日本人キャストによる初公演することについての記事が、掲載されていた。
Huffpost:黒人のように肌を塗るメイクは「許可できません」。日本初上演『ヘアスプレー』の制作陣がメッセージ

この記事を何度か読み直してみたのだが、メッセージの意図が分かりにくいような気がした。
そこで、2013年に公開された時の映画のプロモーションを見て、その意図がようやく理解できたのだった。
それは「日本人キャストによる、日本公演において不自然なメイクは許可しない」ということのようだ。
「肌の色」というのは、それだけデリケートな問題でもある、ということだろう。

そして「ヘアスプレー」で訴えたいのは、「肌の色」だけではないのでは?という気がしている。
映画のプロモーション映像の中でも出てくるのだが、「体形」による問題提議もあると感じている。
それが顕著なのは、ファッションの世界だと思う。
3年ほど前から、「痩せすぎたモデルを起用しない」ことが、求められるようになってきている。
理由として挙げられているのが、10代後半から活躍を始めるモデルが多い中、「体形の維持」を求められるからだ。
10代後半と言えば、まだまだ成長し女性らしい体つきになっていく時期だが、それでは「理想」とされるモデル体形から外れてしまうのでは?という不安などから、厳しい食事制限などを行い、摂食障害に陥るモデルが後を絶たないからだ。
AFP:痩せ過ぎモデルを規制する法施行フランス

と同時に、ここ1,2年の間で「プラスサイズ・モデル」または「カーヴィーモデル」と呼ばれる、体格の良いモデルが、注目を浴びるようになってきている。
ファッション誌・VOUGEでも「プラスサイズ」についての特集を組むようになっている。
VOUGE:ボディの多様性をめぐる、プラスサイズモデルたちの戦い

写真を見ていただければわかると思うのだが、パリやミラノなどのファッションショーに登場するモデルたちとは、随分体形が違う。
パリコレのランウェイをキャットウォークする、痩せたモデルたちを見ると、多くの女性たちは「素敵なファッションだけど、私には無理!」と思ってしまいがちだ。
しかし「プラスサイズ」のモデルたちの姿は、「私にも着られる!」という、ポジティブな気持ちにさせてくれる具現者のように見える。

言い換えれば、彼女たちの登場は、ファッションの世界でもあたらな市場を創り出す、というメリットがある。
プラスサイズモデルを積極的に起用しているのが、現実的でキャリア女性から支持を得やすい、ニューヨークコレクションであるということを考えれば、潜在的「プラスサイズファッション市場」に、ファッション界が気づいた、ということだろう。

日本では、ファッションの中心として考えられているのは、10代~20代くらいのような気がする。
欧米のファッション市場とは、年齢的にもファッション志向においても「若さ中心」となっている日本の市場だが、「ヘアスプレー」日本公演で主役を演じる渡辺直美さんのような存在が、日本における「ファッションの平均体形」という呪縛を壊す存在なのかもしれない。
そして、日本でも「大人のプラスサイズモデル」が登場することによって、体形変化によってファッションを楽しめなくなっている大人の女性たちの市場を獲得することができ、日本のファッション業界も少しは元気になるような気がするのだ。




SNSと世論、そして広告

2019-11-05 22:17:34 | アラカルト

日経新聞のWEBサイトに、「政治広告禁止」という記事があった。
今朝、丁度FM番組にも取り上げられていた内容だった。
おそらく、米国におけるSNSについて、一番の話題になっているのだろう。
(日本では、「嵐」のSNS解禁のほうが話題になっているのでは?と思っている)。

日経新聞:[FT]政治広告禁止、フェイスブックはどう動く

この話題の発端となったのは、Twitterの創立者の一人ジャック・ドーシー氏(だったと思う)が、「Twitter上での政治広告の掲載を禁止する」という発言だったようだ。
それに対して、Facebookのザッカ―バーグ氏は「無審査の政治広告掲載を認める」と発言をし、米国では問題となっている。
「Facebookは自社利益ばかりを考え、社会的問題として考えていない」ということだ。
もちろんザッカ―バーグ氏側にも考えがあり「広告掲載を認める」と言っているのだと思うのだが、旗色は良いとは言えないだろう。

あくまでも想像だが、ザッカ―バーグ氏の考えは「広告を見て判断するのは、受け手である利用者である」ということのように思える。
「広告」を見て・感じ方は、人それぞれである、というのはザッカ―バーグ氏の言う通りだろう。
逆にTwitterが問題にしているのは「広告料というお金をもらって、相手を貶める為に虚偽の内容を含んだ情報を、利用者に提供するのか?」という、企業としての倫理観を基にした発言のように思われる。

両者の考えが、スタート時点から違うように思われ、「どちらが正しい・間違っている」という、議論にはなりにくいような気がする。
逆にTwitterが指摘するような「虚偽の情報を広告として、利用者に提供すること」への危機感がある、ということは前回の大統領選で噂されている(ロシアがトランプ有利の情報を流したなど)ようなことが、世論をつくり・社会に大きな影響を与えるという懸念があるからだろう。
「政治」というよりも「選挙」に対して、SNSという人との繋がりが強いメディアだからこそ、虚偽の情報が拡散と情報を鵜呑みにされやすく、SNSの特徴として挙げられる「ネット上の繋がりが共感性を高める」という独特の文化を持つことを、十分理解しているからこそだろう。

一方ザッカ―バーグ氏の「利用者に判断をゆだねる」ということも、一理あると思う。
ただし、そのような「判断機能」が上手くいくためには、利用者側がより積極的に「広告の情報分析」をする必要がある。
「広告の情報分析」というと、難しいように思えるが「広告に対する裏読み」ができるか・否か、ということになるだろう。
もう一つ言うなら「見たくない広告なら、見なくても良い」という、個人の判断に期待しているようにも思える。

SNSという新しい「媒体」を使った広告は、「政治広告」に限らず増加していくだろう。
もしかしたら既に、テレビのようなメディアよりも強い影響力を持っている「媒体」かもしれない。
まだまだ日本の政治家や政党はSNSの利用は、上手いとは言えない(ように感じている)。
しかし、以前から指摘されているように「SNSに対するリテラシー(読解力)と分析力」の重要性は、日に日に増している。
TwitterとFacebookの「政治広告についての考え方」は、その違いについてだけではなく、受け手となる生活者自身の問題でもあるのかもしれない。


CMづくりが、難しい時代

2019-11-04 20:38:26 | CMウォッチ

Yahoo!のトピックスを見ていたら「なるほどね!」と、思う記事があった。
元となった記事は、AUTOCARJAPANという自動車雑誌に掲載されていた記事だ。
AUTOCAR JAPAN:日本車のTVコマーシャル、外国人が海外で運転するシーン 理由は? 多様化で表現にも幅

我が家にテレビが無くなってから、8年以上経つので「CMを視聴する=Yahooなどで見ることができるもの」だけになってしまった。
それでも、自動車メーカー各社のCMは他の業種に比べ多いと感じている。
この記事がしているように、日本の自動車メーカーなのに、海外ロケ+外国人が運転するというCMがほとんどだ。
もちろん、ファミリー向け車種であれば、有名無名関係なく日本人タレントさんを起用して、日本のロケーションの良いところで撮影をする、ということが現実的だろう。
何故なら、ユーザーの生活シーンと大きくかけ離れてしまうと、車を使う生活シーンがつかみにくいからだ。
だからこそ、ママタレと呼ばれる女性タレントさんが運転席で、ママ友+子供たちというシーンのCMが、これまで数多くつくられてきたはずなのだ。

ここ1,2年で、自動車メーカー側が売りたい車種が変わってきたように、ネットのアドCMを見ていて感じている。
いわゆる「セダン」とか「スポーツ車」と呼ばれる、車種のアドCMが増えているような気がするからだ。
背景として考えられるのは、これまでファミリータイプのクルマのユーザーの家族構成が変化してきた、ということが考えられる。
ホンダのステップワゴン(初代)が登場したのは、今から20年余り前だったように記憶している。
とすると、このころにステップワゴンを購入した層は、既に50代だろう。
「子どもが成長し、子離れした世代」にとっては、ステップワゴンのようなクルマは大きすぎるし、結婚する前に乗っていた(であろう)スポーツタイプのクルマに買い替えることを検討するようになっても、おかしくはない。

もう一つ考えられるのは、様々なところで指摘されている「若者のクルマ離れ」だ。
「経済的ゆとりがない」という問題もあるが、都市部では公共交通機関が充実している為、あえて「維持コストの高いクルマを持つ必要はない」と、考える若者が増えているとも考えられる。
とすれば、メーカー側も中心となるユーザーを50代で比較的生活にゆとりができ始めている層に向けのCMづくりをするようになるのは、当然だろう。

今の50代はバブル経済の恩恵を受けた世代でもあるため、それなりの「高級感」や「グローバル感」を出さないと、興味を持ってもらえないと広告代理店が判断すれば、上述したような「海外ロケ+外国人の運転」ということになってしまうのは、仕方ない。
ただ、その結果似たり寄ったりのCMになってしまう、というのは広告代理店だけではなく、企業の担当者が「守り」に入っているのでは?という、気もしている。

確かに1980年代~1990年代はじめの頃のCMは、今見ても新鮮さを感じるものが多い。
各社が、自社の文化をCMに入れようという気概もあれば、知恵を絞る時間もたっぷりあったように思うのだ。
「広告媒体」の種類が多くなり、それぞれの「媒体に合わせた広告をつくる」という、枠を一度取り払い、「CMとは何か?」というところから、問い直す必要がある時代になってきているのではないだろうか?



「アート思考」とは、何だろう?

2019-11-03 20:56:17 | ビジネス

ほぼ毎日チェックする、COMEMO に「アート思考」について、分かりやすい内容のものがあった。
それよりも、記事のトップに掲載されている写真を見て「凄い!」と、唸ってしまったのだった。
COMEMO:アーティストを目指す学生に伝えたい事。

記事のトップに掲載されている写真は、東京芸大の学園祭で登場した「神輿」の一つだ。
発泡スチロールを使って作成された「神輿」を、学生が披露する作品のようだ。
何よりこの「神輿」は、毎年人気の作品となっている、という。
ねとらぼ:東京芸術大学の学園祭がぶっ飛びまくり!「牛頭、馬頭みこし」に「スチームパンクみこし」で度肝抜く

今年の「神輿」は例年に比べ、制作をする学生たちの力は入り具合が半端なかったのか?どの「神輿」も発砲スチロールを土台に創られた云々ではなく、芸術作品として十分すぎるほどの力を感じるのは、私だけではないと思う。
そして一昨年ごろからだろうか、ビジネスの世界では盛んに「アート思考」ということが、言われるようになってきた。

私の理解が違っているのかもしれないのだが、「アート思考」と言ったとき、「芸術を鑑賞し、そこから何かを感じ取り考える力」のように思われているように感じているのだが、日ごろそのような「アート作品」を見ていないビジネスパーソンが、いきなり美術館に行ったからと言ってそのような「思考」が身につくとは思えないし、現実的には難しいのでは?と、感じていた。
だからこそ「アート思考」と言う言葉が、盛んに言われるようになったころから、ある種の違和感を持っていた。

しかしCOMEMOの「アーティストを目指す学生たちに伝えたい事」を読んだとき、「アート思考」とはこのようなことなのでは?という、気がしたのだった。
重要な点は「プレゼンテーション力」と「共感性」だ。
クラウドファンディングによって「制作費」を集めるためには、「プレゼンテーション力」は重要であり、一流の表現者(を目指すの)であれば、「言葉で語れと言われたらものすごくロジカルにプレゼンテーションができる人達」であるという。
これまで「芸術家(あるいは表現者)=口下手な人たち」という、ステレオタイプ化された見方をしている部分が多いと思うのだが、それは思い込みでしかない、ということだろう。

当然「プレゼンテーション力」が高ければ、そのプレゼンテーションに対しての「共感性」を引き出す力も備わっていなくては、クラウドファンディングによる制作の為の資金調達はできない。
「(誰かに)共感する」のではなく「共感させる(力がある)=共感性」だと考えると、美術的作品だけではなく音楽など「芸大」の専門課程全般に共通する内容である、ということが分かる。

そしてこれら「プレゼンテーション力」も「共感性」にしても、「アート思考」に限ったことではない、ということにも気づくはずだ。
もし「アート思考」を考えるのであれば、芸術作品を見て・聴いて「何に共感をしたのか?共感した理由は何か?」という「直感的」な部分を改めて分析(と言うと大げさだが)することで、「アート思考」の本質が理解できるのではないだろうか?



「英語民間試験見送り」の問題で考える、学び続けることの大切さ

2019-11-02 08:41:44 | 徒然

2020年度から始まる、大学入学共通テストで活用予定だった「英語の民間試験」について、突然見送りの発表があった。
中日新聞:英語民間試験見送り 24年度めどに新制度、中止も選択肢に

2020年度に大学受験をする予定だった受験生にとっては、いい迷惑!というのが本音だろう。
毎日新聞:「ふざけるな」「マジで振り回されている」突然の延長決定に受験生 英語民間試験(会員有料記事)

この問題をまず整理する必要があると思う。
「英語民間試験」が見送りになった原因は、現文部科学相である萩生田氏が「身の丈に合った受験をするように」と、発言したのが発端だった。
この発言を回収する為に、「英語民間試験」を見送ったということのようだ。
しかし、この問題の本質は別のところにあるのではないだろうか?
BusinessJournal:大学入試・英語民間試験が”マジであり得ない”理由・・・経済的&地理的格差が学歴に直結

このような問題が提議されると、都市部に住んでいる方からは「それは、そのような所にいるのだから仕方ないだろう」的な、指摘をされることが多い。
そのような指摘ができる人達は、地方にいる人達が被らなくてならない「格差」が分からない、と地方出身者である私は感じている。
都市部から離れれば離れるほど、大学への進学率は下がる、という事実があり、最低賃金の賃金格差ともリンクしている。
単なる偶然とは言えないほど、都市部と地方との格差は「学歴と賃金」の関連がある、と考える必要があるのが、現在の日本の姿だと考えている。
何故なら、このような格差が人口流動などにも影響を与え、地方経済の沈下の要因にもなっていると思われるからだ。

この「英語民間試験」についての解決法は、BusinessJournalでも指摘している通り「大学入試」の中に組み込むことだろう。
それが「統一試験」の原理原則だし、地域・経済格差を生まない「公平な試験」だからだ。

日経ビジネスの〔議論〕のインタビュー記事で出口治明氏が大学学長として、今の構造的「学ばない」ことで起きている日本企業(=日本経済)の停滞について話している(会員有料記事の為全文を読むことはできないが、大まかな内容は理解できると思う)。
日経ビジネス〔議論〕:出口治明「元凶は精神論のマネジメント。すぐ学び直せ」

出口さんは、社会人だからこそ学び続けることの重要性を話しているのだ。
今回の試験中止によって戸惑っている受験生には、「今までの勉強は無駄ではない」と伝えたい。
「英語民間試験」利用の目的は、「バランスの良い英語力」を測ることだったはずだ。
今は「大学受験だけ」が目的となっているが、本来であればこのような「バランスの良い使える英語」というのは、進学後や社会人になってから必要な語学力のはずだ。
語学取得は、受験が目的であっては「使えるもの」にはならない。
だからこそ「民間英語試験」が延期されたからと言って、「振り回された」などと考えてほしくはないのだ。