予科練平和記念館館が平成22年2月2日、茨城県阿見町にオープンしました。
□予科練とは、「海軍飛行予科練習生」略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧州列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練行って搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始。
14才半から17才までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習生制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生過程を経て戦地へ赴きました。なかには「特別攻撃隊」として出撃したものも多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼった。
□阿見町と予科練
茨城県阿見町は大正時代末期に、東洋一の航空基地といわれた「霞ヶ浦海軍航空隊」が設置されて以来、昭和14年には「海軍飛行予科練習部」、いわゆる「予科練」が神奈川県横須賀から移転し、翌年には予科練教育を専門におこなう「土浦海軍航空隊」が設置された。
長く「海軍の町」としての歴史を歩んできた阿見町は、特別な時代を過ごし、多くの歴史を刻み込んでいます。予科練を主体とした資料を保存・展示、戦史の記録を風化させることなく次の世代に継承する為、「予科練平和記念館」が建設されました。
□ 霞ヶ浦海軍航空隊と予科練
明治維新以降、日本は、富国強兵により軍備拡大と近代化、海外貿易による市場獲得を推し進めた。そんな中で「日清戦争」「日露戦争」「第1次世界大戦」を経験。
日露戦争以後、軍備の近代化を痛感した日本は、航空機の必要性を感じ、航空術研究所を横須賀市の追浜(おっぱま)に設け、飛行訓練を開始した。 また、第1次世界大戦で航空機が次世代の中心的役割を担うと感じた海軍は、海軍航空の発展と拡充を図るため、陸上機と水上機の両方の訓練が可能である阿見を選定し、大正11年、阿見原に「霞ヶ浦海軍航空隊」を、霞ヶ浦湖畔には「霞ヶ浦海軍航空隊水上班」を開設しました。
さらに、海軍は、若年から技術を習得させ熟練した航空機搭乗員の養成をするため、昭和5年に、「海軍飛行予科練習生」(通称:予科練生)制度を設け、「横須賀海軍航空隊」の一隅に「横須賀海軍航空隊予科練習部」を置きました。同年には、73倍の狭き門を突破し第一期生が入隊した。後に「横須賀海軍航空隊予科練習部」は、予科練習生の増員等の理由により、昭和14年に「霞ケ浦海軍航空隊」に移転。これが「霞ケ浦海軍航空隊飛行予科練習部」の始まりである。
□ 町の賑わい
阿見においては、「霞ヶ浦海軍航空隊」の発足により、大正9年には、土浦-江戸崎間の乗り合いバスが運行を開始、11年には、土浦駅から「霞ケ浦海軍航空隊」に通じる新しい道路も開通したりしました。さらに12年には、土浦-阿見間に
常南電気鉄道が開通した。軍人や施設建設に伴う工事人さらに商人の移動により、阿見村の人口は急速に増加し、中心部である青宿には、新たに新町(昭和2年)と呼ばれる町並みが形成された。
それまで田畑だった新町が、商店街・飲食街となり軍人やその家族はもとより、一般の人々の生活用品購入の場ともなっていきました(居酒屋・旅館・風呂屋・酒屋・魚屋・時計屋・床屋・雑貨屋・自転車屋・病院・置屋・派出所ーなど)。