さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

湯葉と豆腐「梅の花」

2010-03-16 15:48:38 | 閑話休題
梅の花・横浜青葉台店
稲沢の大婆ちゃんが茨城に遊びにきました。ひ孫達と横浜青葉台の「湯葉と豆腐の店 梅の花」で美味しい湯葉と豆腐の創作懐石料理をいただきました。
〒227-0062 神奈川県横浜市青葉区青葉台1-6-5
アクセス; 東急田園都市線青葉台駅 徒歩1分 
TEL 045-988-1330 FAX
営業時間  11:00~16:00(L.O.15:00) 17:00~22:00(L.O.21:00) 


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磯部温泉

2010-03-15 16:11:36 | 温泉紹介
ホテル磯部ガーデン
 平成22年2月19日(金)~20日(日)、群馬県安中市、ホテル磯部ガーデンにて、平成22年度倫理法人会関東甲信越方面会が開催され出席しました。昔話「舌切り雀」の伝説がうまれた、この磯部温泉は中仙道に程近く、古来より碓氷峠を往来する旅人で賑わっていたところ。天明三年(1783年)の浅間山大爆発により湧出量が飛躍的に増えたと言われています。明治になって鉄道が整備されるとともに、信越線が開通すると、避暑地として定着しました。
□泉質  含銅・鉄(II)-ナトリウム-塩化物・炭酸水素塩強塩温泉
□効能  神経痛、筋肉痛、関節痛など
□住所  〒379-0127群馬県安中市磯部1-12-5 Tel.027-385-0085
     JR信越本線磯部駅より徒歩5分 

温泉マーク 発祥の地
1661年(万治4年)に江戸幕府からだされた、農民の土地争いに決着を付けるため評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」内の地図に2箇所温泉マークらしき記号が存在した。 磯部温泉史を研究していた編集委員の一人が作業中に偶然その記号の存在に気づいたのは、江戸幕府の判決文公布から300年以上の時を経た、1981年のことでした。日本温泉協会によると、泉質により様々な形がありましたが、「最も分かりやすい形」として、明治後期ごろ現在の形になったと言われている。磯部温泉には温泉マーク発祥の地の石碑が建っている。

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予科練記念館

2010-03-14 09:47:03 | 閑話休題
予科練平和記念館館が平成22年2月2日、茨城県阿見町にオープンしました。
□予科練とは、「海軍飛行予科練習生」略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧州列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練行って搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始。
14才半から17才までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習生制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生過程を経て戦地へ赴きました。なかには「特別攻撃隊」として出撃したものも多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼった。
□阿見町と予科練
 茨城県阿見町は大正時代末期に、東洋一の航空基地といわれた「霞ヶ浦海軍航空隊」が設置されて以来、昭和14年には「海軍飛行予科練習部」、いわゆる「予科練」が神奈川県横須賀から移転し、翌年には予科練教育を専門におこなう「土浦海軍航空隊」が設置された。
 長く「海軍の町」としての歴史を歩んできた阿見町は、特別な時代を過ごし、多くの歴史を刻み込んでいます。予科練を主体とした資料を保存・展示、戦史の記録を風化させることなく次の世代に継承する為、「予科練平和記念館」が建設されました。
□ 霞ヶ浦海軍航空隊と予科練
 明治維新以降、日本は、富国強兵により軍備拡大と近代化、海外貿易による市場獲得を推し進めた。そんな中で「日清戦争」「日露戦争」「第1次世界大戦」を経験。
 日露戦争以後、軍備の近代化を痛感した日本は、航空機の必要性を感じ、航空術研究所を横須賀市の追浜(おっぱま)に設け、飛行訓練を開始した。 また、第1次世界大戦で航空機が次世代の中心的役割を担うと感じた海軍は、海軍航空の発展と拡充を図るため、陸上機と水上機の両方の訓練が可能である阿見を選定し、大正11年、阿見原に「霞ヶ浦海軍航空隊」を、霞ヶ浦湖畔には「霞ヶ浦海軍航空隊水上班」を開設しました。
 さらに、海軍は、若年から技術を習得させ熟練した航空機搭乗員の養成をするため、昭和5年に、「海軍飛行予科練習生」(通称:予科練生)制度を設け、「横須賀海軍航空隊」の一隅に「横須賀海軍航空隊予科練習部」を置きました。同年には、73倍の狭き門を突破し第一期生が入隊した。後に「横須賀海軍航空隊予科練習部」は、予科練習生の増員等の理由により、昭和14年に「霞ケ浦海軍航空隊」に移転。これが「霞ケ浦海軍航空隊飛行予科練習部」の始まりである。
□ 町の賑わい
 阿見においては、「霞ヶ浦海軍航空隊」の発足により、大正9年には、土浦-江戸崎間の乗り合いバスが運行を開始、11年には、土浦駅から「霞ケ浦海軍航空隊」に通じる新しい道路も開通したりしました。さらに12年には、土浦-阿見間に常南電気鉄道が開通した。軍人や施設建設に伴う工事人さらに商人の移動により、阿見村の人口は急速に増加し、中心部である青宿には、新たに新町(昭和2年)と呼ばれる町並みが形成された。
 それまで田畑だった新町が、商店街・飲食街となり軍人やその家族はもとより、一般の人々の生活用品購入の場ともなっていきました(居酒屋・旅館・風呂屋・酒屋・魚屋・時計屋・床屋・雑貨屋・自転車屋・病院・置屋・派出所ーなど)。

 
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孫の晴れ舞台

2010-03-10 20:55:05 | 閑話休題
幼稚園の演劇会、年中さんのえいみちゃんのクラスは絵本「おともだちになってね」をオペレッタで演じました。えいみちゃんはウサギ役です。セリフを堂々と、大きな声でハッキリ言うので、茨城のお爺ちゃん、お婆ちゃんはビックリ、孫の成長を見て、ウルウルしていました。
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イスラエルの旅(5日目、マサダの日の出)

2010-03-09 23:05:01 | 海外旅行
5日目;NOE社50周年謝恩企画の「マサダ遺跡での日の出鑑賞」がロープウエイをチャーターしてサプライズ。
マサダの日の出マサダの遺跡→ホテル・朝食→世界遺産:マムシット遺跡→→昼食→世界遺産:テル・ベエル・シェバ遺跡  泊:エルサレム・レオナルドホテル
6日目:ホテル8:30発→世界遺産:エルサレム観光・オリーブ山→オリーブ山・主の涙の教会万国民の教会・ゲッセマネマリアの墓の教会南の壁考古学博物館最後の晩餐の部屋ダビデ王の墓鶏鳴教会→昼食→パレスチナ自治区・ベツレヘム聖誕教会→夕食→ダビデの塔謝恩企画「光と音のショー」  泊:エルサレム・レオナルドホテル
7日目:ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」→嘆きの壁トンネル岩のドームヴィアドロローサ(悲しみの道);十字架を背負ったイエスが歩いた道→聖墳墓教会イスラエル博物館テル・アヴィヴのホワイト・シティ-→ヤッファ  イエスの使徒ペテロが滞在した「皮なめし職人シモンの家」→ヤッフォの聖ペテロ教会
  機中泊
8日目 テルアビブ空港(HY304便)→タシケント空港(HY527便)→成田空港
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イスラエルの旅

2010-03-08 17:35:52 | 海外旅行
2010.1.27~2.3(8日間)、(株)NOEツアー、参加者28名、添乗員:畔上正美、ガイド:サイゴウ・アキ、運転手:Mr.バハシャット、同行者:大西啓義
1日目:成田空港(ウズベキスタン航空HY528便)→関西空港→タシュケント空港テルアビブ
2日目:テルアビブ空港→カイザリア観光カイザリアの円形劇場闘技場ローマ時代の水道橋世界遺産;バハイ教寺院世界遺産:アッコの十字軍要塞ガリラヤ湖畔   泊;GOLDEN TULIP(ゴールデンチューリップ)
3日目:ガリラヤ→マリア受胎の地(ナザレ観光)●受胎告知教会→●聖ヨセフ教会→イエスが最初の奇跡を行ったカナの婚礼教会→ガリラヤ湖遊覧→パンと魚の奇跡の教会聖ペテロ首位権教会カペナウム山上の垂訓教会     泊;GOLDEN TULIP(ゴールデンチューリップ)
4日目:ホテル→ハルマゲドンの舞台と言われる世界遺産;メギド遺跡キブツでトイレ休憩→パレスチナ自治区;誘惑の山を望む世界最古の町の一つ●エリコの遺跡クムラン遺跡死海の浮遊体験   泊:REONARDO HOTERU(レオナルド ホテル)
5日目: 続く  
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エルサレム

2010-03-08 16:34:16 | 海外旅行
 エルサレムは、イスラエルが実効支配している都市で、イスラエルが首都だと主張しているが、日本等、国際的には認められていない。ユダヤ人が住む西エルサレムとアラブ人居住区である東エルサレムから成り立つ。
 東部についてはパレスチナ自治政府も領有を主張し、エルサレム県に含まれるとともにパレスチナ独立後の首都と規定している。古代イスラエル・ユダ王国の首都で、エルサレム神殿がかつて存在した。また、イエス・キリストが処刑された地でもあり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖地となっている。

□ 東エルサレム
ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地。旧市街と呼ばれ、嘆きの壁、聖墳墓教会、岩のドームといった各宗教ゆかりの施設がある。嘆きの壁の上は神殿の丘と呼ばれる、かつてのエルサレム神殿の跡で、ここにはイスラム教の聖地アル=アクサー・モスクやイスラーム建築の傑作とされる岩のドームが建っている。岩のドームにはムハンマドが旅立ったという伝説があり、地下には最後の審判の日にすべての魂がここに集結してくるとされる「魂の井戸」がある(イスラム教がユダヤ教徒の伝統に従い、ユダヤ教最高の神殿跡をイスラム教寺院に改造できる根拠は、ムハンマドおよびイエス・キリストはユダヤ教徒にも信頼されうる預言者であって、イスラムがユダヤ教の伝統と矛盾せずにかつユダヤ教を凌駕しているとの主張を示している。ここにパレスチナ問題における宗教的側面での問題がある)。旧市街は「エルサレムの旧市街とその城壁群」の名で1981年に世界文化遺産に登録された(ヨルダンによる申請)。
□ 西エルサレム
 西側は新市街と呼ばれる近代的な都市で、ヘブライ大学、イスラエル博物館、ハイテク工業団地や国会、各省庁などが立地する、イスラエルの政治・文化の中心である。
□宗教とエルサレム
 エルサレムは単に地理的に中東の要所であるのみならず、3つの宗教(アブラハムの宗教)の聖地でもある。このことはエルサレムの帰属をめぐる紛争の火種となっており、パレスチナ問題の解決を一層困難にしている。
 ◎ユダヤ教にとっては、エルサレムはユダ王国の首都であった場所であり、その信仰を集めていたエルサレム神殿が置かれていた場所である。幾つかの神聖とされる場所が残っている。中でも嘆きの壁は有名で、これはA.D.70年にローマ帝国がエルサレム神殿を破壊したときに外壁の一部が残されたものである。
 ◎キリスト教にとっては、エルサレムはイエス・キリストが教えを述べ、そして処刑され、埋葬され、復活したとされる場所である。それらの場所には、現在はそれぞれ教会が建っている。
 ◎イスラム教にとっては、エルサレムはムハンマドが一夜のうちに昇天する旅を体験した場所とされる。ムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわちマッカ(メッカ)のカアバ神殿から一夜のうちに「遠隔の礼拝堂」すなわちエルサレム神殿までの旅をした。このときムハンマドはエルサレムの神殿上の岩から天馬に乗って昇天し、神の御前に至ったのだという。
 この伝承は、イスラム教徒の間では事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所にはウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれた。また、丘の上には「遠隔の礼拝堂」を記念するアル=アクサー・モスクが建設され、聖なる場所と見なされている。
□ 首都問題
 エルサレムは、古くより三つの宗教の聖地として栄え、エルサレムを領土に収めた代々の国家はエルサレムを首都としてきた。現在においても、エルサレムは、議会や首相府、中央省庁などがある政治と文化の中心であり、イスラエル最大の都市である。
 エルサレムは東西を分断されたが、イスラエル議会は1950年にエルサレムを首都と宣言。その後、第三次中東戦争でイスラエルが東西ともに占領し、1980年には、改めてイスラエル議会により、エルサレムはイスラエルの永遠の首都であるとされたが、国連総会は東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議した。
 エルサレムはイスラエルが首都と宣言していながら、国際的には認められていない。そのため、各国の大使館などは第二都市のテルアビブに集中している。2009年、EU議長国のスウェーデンは、エルサレムをイスラエル、パレスチナ両国の首都とするよう求める発議を行った。イスラエルはこれに反発し、EU加盟各国に抗議を行った。






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ユダヤ教のバル・ミツワー(成人式)

2010-03-07 09:32:18 | 海外旅行
□ユダヤ教
 『タナハ』 とよぶ書を聖典とする。これはキリスト教の『旧約聖書』と同じ書物である。ただし、キリスト教とは書物の配列が異なる。
 ユダヤ教はキリスト教やイスラム教と違い、信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視する。「信じるものは救われる」などという講義をするラビはいない。そのため改宗にも時間がかかり、単なる入信とは大きく異なる。 ユダヤ教徒であることとユダヤ人であることはほぼ同義に近く、血縁よりも教徒としての行動が重要視されることも多い。しかし、神の下僕となり、神との契約を守る非ユダヤ人がユダヤ教徒になることには条件がいる。その場合、ユダヤ人が神の祭司であるのに対し、非ユダヤ人は労役に服するという差別性があり、キリスト教のように「イエスを信じる者が平等に救いを得ることができる」とはしない。ここにもユダヤ教の普遍宗教的でなく民族宗教的な側面がある。
 しかし、形式的に考えれば初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人だったのであり、「ユダヤ人キリスト教徒」という矛盾を含んだ呼称も成立する。世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうるのであり、ユダヤ人は他宗教に改宗することによってもはや狭い意味での「ユダヤ人」ではなくなってしまう。
 このように、内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない。
□ ユダヤ教の教え・信仰
 ユダヤ教徒の中にも、ランクがあり、ラビと呼ばれる人は、国家公務員として、国から給料をもらいながら、タルムードと呼ばれる教典に従って行動している。タルムードは2世紀頃からユダヤ人の間で幾たびも議論の末に改良を重ねられてきた生活および思想の基礎である。
①教育
 ユダヤ教において最も特徴のある分野は教育でユダヤ教徒は教育こそが身を守る手段と考え、国を守るには兵隊を生み出すよりも子供によい教育を受けさせるべきとされている。そのため一般大衆の殆どが文盲だった紀元前からユダヤ人のコミュニティでは授業料が無料の公立学校が存在していた。平均的なユダヤ教徒は非常に教育熱心で、子供をいい学校に行かせるためには借金をすることも当然と考える。家庭では特に父親の存在が重要で、先導して子供に勉強、タルムードなどを教え、子供を立派なユダヤ人に育てたものは天国にいけると信じられている。また子供が13歳に達するとバル・ミツワー(成人式)の儀式が行われ完全に大人と同様と扱われる。
② 死生観
 ユダヤ教は死を現実的なものと捉えており、一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。
③ 労働
 労働は神の行った行為の1つであるため、神聖な行為と考えられている。そして、安息日と呼ばれる休日を週1回は必ず行うべきであり、安息日の間は労働はしてはならず、機械に触れてもいけない。(金曜日の日没から土曜日の日没まで。)自分自身を見つめ、自分と対話したり、家族と対話したりする。
④割礼
 生後8日目、性器の5-6㎜をカミソリで切る。割礼式は、神との契約書
□ユダヤ教の成立
 紀元前1280年頃、モーセが、社会的下層の人々を中心とした集団をエジプトから脱出させ(出エジプト)、シナイ山で神ヤハウェと契約を結ぶ(十戒、律法)。カナンに定着後の約200年間は、12部族からなるイスラエル民族が繁栄し、王は神ヤハウェとして人間の王を立てずに、平等な社会を形成した。。
 紀元前1020年頃イスラエル王国が成立し、約400年間は外部からの防衛上必要悪として王を立てるが、平等な関係が崩壊し、支配・被支配の構造が作られ、預言者による王への批判が起こる。ダビデと子のソロモンの時代にあたる。その後ユダ王国が成立し、南北に分裂した。
 紀元前587年、ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされ、政治・宗教のエリート層の全員が捕囚され、王国もなく、神殿もない状況に置かれた。この中で今までのイスラエル民族の歩みを根本的から捉え直され、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選び、大胆な宗教変更・改革が行われた。「圧倒的な政治・経済を誇る異教の地」の下にも拘わらずそれに飲み込まれずに、神ヤハウェの再理解、神との再度の関係修復を実現し、イスラエル民族のアイデンティティを確立したのである。旧約聖書の天地創造物語はこの時代に著述された。
 これが「神ヤハウェが、この世界を創造した神であり、唯一神である」と理解し直されたユダヤ教である。この時期の代表的な宗教家は無名であり、また、創世記の天地創造の物語も、この時代に、祭司記者といわれるグループによって著述された。   
 その後(紀元前539年)、この捕囚されていたユダ王国の人々がユダヤに帰還した。しかし、政治運動であるユダヤ王朝の復興は禁止されたままであったため断念し、捕囚期の宗教改革を受けたヤハウェ宗教の下で「エルサレム神殿の儀礼」と「神ヤハウェの教えである律法の遵守」を2本の柱とするユダヤ教団を発展させた。
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イエスの歩いた悲しみの道「ヴィア・ドロローサ」

2010-03-06 15:40:35 | 海外旅行
イエスは父ヨセフと聖母マリアの間に、ベツレヘムの質素な小屋(馬小屋)で生まれました。イエスは、もともとユダヤ人であり、ユダヤ教を学んだのだが、ガリラヤ湖で数々の説教と奇跡を起こし、次第に民心をとらえ、一部で熱狂的支持をえていた。
ユダヤ教の律法学者は、イエスの説く教えが、ユダヤ教の律法に反しており、それが、人々の心をとらえているので脅威を感じた。
裁判にかけらられたイエスが、「私は神の子だ。」と告白、これは、ユダヤ教最大の教義である「一神教に対する冒涜である」として、当時、この地方を治めていたローマ帝国の総督・ピラトが、有罪の判決を行い、死刑となった。
イエスが総督の官邸で、有罪判決を受け、十字架を背負わされながら磔刑のゴルゴタの丘まで歩いた。
この道が、悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)、お母さんのマリアも、沿道で見送ったとのこと。
道路、家は、日本と違って、石造りのため、2000年経った今も残っている。
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エルサレムの「岩のドーム」

2010-03-05 15:12:35 | 海外旅行
「岩のドーム」 はエルサレムにある。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって重要な関わりを持つ聖なる岩を祭っている。「聖なる岩」を取り囲むように建設され、692年に完成した。
信仰
岩のドームはかつてのエルサレム神殿内にあり、イスラム教の教祖・ムハンマドが大天使ジブリール(ガブリエル)に伴われエルサレムの神殿上の岩から天馬ブラークに乗って昇天し、神アッラーフの御前に至ったのだという。
この「聖なる岩」は、アブラハムが息子のイサクを神のために捧げようとした台であるともされるため、キリスト教、ユダヤ教も聖地を主張している。
■ イスラエルの歴史
古代のイスラエルはヘブライ人(聖書においては、アブラハム・イサク・ヤコブ)を先祖にする。ユダヤ民族の歴史は、紀元前17世紀、約4000年前の族長アブラハムに始まる。旧約聖書には、アブラハムがどうしてカナンの地に来て、民族の祖先に選ばれ、唯一神の信仰者になったかが書かれている。
■ イスラム教
西暦610年頃、ムハンマドがメッカ郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、アラビア半島でイスラーム教を始めた。
イスラム教に帰依する者(イスラム教徒)は、アラビア語起源の言葉でムスリムといい、ムスリムは、自らの教えの名を、アラビア語で「身を委ねること」「神に帰依すること」を意味するイスラーム の名で呼ぶ。「イスラーム」は「神への帰依」を意味すると解されており、「ムスリム」(イスラム教徒)は「神に帰依する者」を意味する。また、「イスラム」という名称は、創始者(または民族)の名称を宗教名に冠していない(即ち、ムハンマド教とならない)。これは、他の主要な宗教とは異なるとされており、この理由には諸説あるが、宗教学者の解説によれば、イスラムが特定の人間の意志によって始められたものではないこと、及び国籍や血筋に関係なく全ての人々に信仰が開かれていることを明示するためであるとしている。
今日、ムスリムは世界のいたるところでみられる。約11億人の信徒があると推定されていて、世界で2番目に多くの信者を持つ宗教である。
イスラム教の信仰の根幹は、六信と五行、すなわち、6つの信仰箇条と、5つの信仰行為から成り立っている。
六信は、次の6つである。
神(アッラー)
天使(マラーイカ)
啓典(クトゥブ)
使徒(ルスル)
来世(アーヒラ)
定命(カダル)
このうち、特にイスラム教の根本的な教義に関わるものが神(アッラー)と、使徒(ルスル)である。ムスリムは、アッラーが唯一の神であることと、その招命を受けて預言者となったムハンマドが真正なる神の使徒であることを固く信じる。イスラム教に入信し、ムスリムになろうとする者は、証人の前で「神のほかに神はなし」「ムハンマドは神の使徒なり」の2句からなる信仰告白(シャハーダ)を行うこととされている。

また、ムスリムが取るべき信仰行為として定められた五行(五柱ともいう)は、次の5つとされている。
信仰告白(シャハーダ)
礼拝(サラー)
喜捨(ザカート)
断食(サウム)
巡礼(ハッジ)
これに、聖戦(ジハード)を6つめの柱として加えようという意見もあるが、伝統的には上の5つである。
これらの信仰行為は、礼拝であれば1日のうちの決まった時間、断食であれば1年のうちの決まった月(ラマダーン、ラマダン)に、すべてのムスリムが一斉に行うものとされている。このような行為を集団で一体的に行うことにより、ムスリム同士はお互いの紐帯を認識し、ムスリムの共同体の一体感を高めている。集団の一体感が最高潮に達する信仰行為が巡礼であり、1年のうちの決まった日に、イスラム教の聖地であるサウジアラビアのマッカ(メッカ)ですべての巡礼者が定まったスケジュールに従い、同じ順路を辿って一連の儀礼を体験する。
■ユダヤ教との関係
ユダヤ教はアブラハム系宗教の根本ともいえる宗教であり、イスラームに対しても強い影響を与えた。ムハンマド自身当初は自分の信仰をユダヤ教やキリスト教の延長線上にあるものとして捕らえており、独自の宗教を開くという意図はなかったとも言われている。イスラームの立法的側面は、ユダヤ教のそれを受け継ぎ簡素化させたものであるとされる。
ユダヤ教徒はイスラーム教徒にとって、同系の宗教を信ずる「啓典の民」であるという側面と、イスラームを受け入れず「劣った」教えにしがみつくおろかな者たちであるという側面が存在している。




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