さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

「火の国」カムチャッカ、トレッキング

2007-08-12 08:59:06 | 海外旅行
カムチャツカ 5日間の旅に8月7日から11日まで行ってきました
旅行社/クラブツーリズム 同伴/大西、ツアーディレクター/森田、ガイド/パーシャ、アシスタント/エレーナ
この時期、直行便が飛ぶため、ハバロフスクなどを経由する必要がなく、成田より3時間半の飛行。
観光一日目は、六輪駆動車で春の雪解け時には川だった道ならぬ道を、アパチャ山登山のベースキャンプ場(標高800m)まで登り、周辺のフラワーウォッチハイキング。帰りにパラトゥンカ温泉(温水プール)に寄って、ホテルに戻る。少数民族の踊りを鑑賞しながら夕食。

観光二日目は再び六輪駆動車に乗って、高山植物の宝庫ヴァチカゼツ高原ベースキャンプで再び、フラワーウォッチハイキング。帰りに旧住民であるイテルメン人の暮らしと文化を紹介する「イテルメン人文化村」に立ち寄った。しかし、イテルメン人は世界に1,200人しかいないし、イテルメン語を話す人は50人しかいない。きっとクロテンやキツネ、ビーバーなどの毛皮を手に入れようと、大陸から銃を持った人たちが押し寄せて来たに違いない。隣のアリーシャン列島ではそのような人たちによって、3,200年もの歴史がある旧住民はいなくなった・・・・
ちょっと、インカ人が滅んだのと重なる。
六輪駆動車は舗装道路でも轟音を響かせて爆走し、ちょっとでこぼこしてると跳ね上がるくらいの振動だ。しかし、この舗装道路の振動は心地よくて、すぐに睡魔に襲われるので不思議。軍事用からの転用なのか?スゴイ車!

観光三日目はまたまた、六輪駆動車でビストラヤ川へ。ゴムボートの川くだりと釣り体験。カムチャッカの自然を満喫しようという趣向。川を下りながらルアーを投げ入れるけど、一匹も釣れなかった。「逃がした魚は大きい」の言葉も出せず残念。別のボートに乗った人が「イワナが一匹釣れた!」と喜んでいた。

ツアーの場所はいずれも州都ペトロパブロスクの町から3時間から4時間のところにある。カムチャッカ半島のほんのチョコット一部だけお邪魔しましたわけ。まだまだ、観光資源としての、でっかい自然があるけど。自然破壊と観光開発の折り合いをつけながら、”手つかずの大自然”世界自然遺産「カムチャツカ火山群」(最高峰は4,750mのクリュチェフスキー火山)への観光ルートが出来るかな・・・・
□観光 フラワーウォッチング
イワキキョウミヤマムラサキイチゲイチヤクソウミヤマアズマギクウラジロキンバイエゾツツジイワブクロハクサンイチゲリシリヒナゲシキバナアツモリソウトウヤクリンドウエゾノツガザクラクルマユリトモエシオガマヨツバシオガマタカネシオガマサマニヨモギヒョウギアヤメチシマフーロウメバチソウ(梅鉢草)シロバナイチヤクソウ
シコタンハコベフタマタタンポポカラフトマンテマシコタンソウアキノキリンソウエゾミヤマツメクサハハコヨモギクワガタソウコケモモガンコーラントチナイソウイワベンケイウルップソウイワヒゲチシマアマナエゾノコギリソウシナノキンバイヒョウギアヤメチシマアザミエゾノコギリソウギョウジャニンニクチシマヒョウタンボクマルハシモツケヤナギランモウセンゴケホサバキソチドリヒメカラマツスイカズラミヤマコウゾリナキバナシャクナゲオオヤマフスマ

カムチャッカ半島
カムチャツカ州はロシア連邦の州。州都はペトロパブロフスク・カムチャツキー。州の北半分はコリャーク自治管区が設けられている。
面積 472,300km²
人口 358,801人(2002年)
日本は
面積 約378,000km²
人口 約1億2700万人(2006年国勢調査)
□ロシア語
    おはようございます。   ドープレ・ウッドラ
    オーケー!         ハラショー
    ありがとう        スパスィーバ
    ビール          ビバ
    おいくらですか?     スコリカ? 
□地理 東はベーリング海、西はオホーツク海である。火山帯が走り、約160の火山がある。うち、29が活火山。カムチャッカの火山群は1996年にユネスコの世界自然遺産に登録され、今年は10周年にあたる。

□住民 住民のほとんどは州都ペトロパヴロフスク・カムチャツキーに暮らす。人口は約30万人の小さな都市。ロシア人(80.9%)、ウクライナ人(5.8%)、コリャーク人(2.0%)、日本人は4人。
□産業 石炭、天然ガスなどを産する。主要な産業は漁業。ロシア太平洋潜水艦隊の基地がアヴァチャ湾にあり、また空軍基地やレーダー基地が置かれ、軍事的にも重要な地域。
□歴史 もともと、アイヌ民族の居住地であり、日本人も交易のため居住していたといわれる。
ロシアは17世紀にカムチャツカ半島の領有を宣言した。1697年にヴラジミル・アトラソフが65人のコサックと60人のユカギール人を率いてこの島の到着、この時からロシア人の定着化が始まる。カムチャツカ川に2つの船着場をつくり、1713年には約500人のコサックがいたとされる。コサックたちの過剰な搾取は先住民の反乱を招き、1731年には蜂起した先住民がニジネカムチャツキーに暮らしていたコサックたちを殺害した。残ったコサックたちは火器や大砲で反撃して蜂起を治めた。18世紀初めには約2万人いたとされる先住民族は、1750年には8,000人になった。
1740年にデンマーク人ヴィトゥス・ベーリングによってペトロパヴロフスク・カムチャツキーが建設された後、カムチャツカは流刑地となり、次第に開かれていった。ロシア帝国政府はカムチャツカ半島への入植を奨励した。
1854年、クリミア戦争でロシアと戦っていたフランスとイギリスがペトロパヴロフスク・カムチャツキーを攻撃。988人の成人男子はたった68丁の銃で、206丁の銃を持った2,540人の英仏軍の侵入を退けた。
第二次世界大戦後、カムチャツカは軍事地域として閉鎖され、1989年までは一般のロシア人も立ち入ることはできなかった。1990年以降は外国人にも解放されている。
□富山の拿捕漁船
 禁止された鮭を違法に獲ったため、ロシア国境警備局に拿捕(だほ)された富山県の漁船「第88豊進丸」は、ペトロパブロフスクカムチャツキー港の沖合に抑留さて国際裁判となっていた。国際海洋法裁判所の判決は船長ら乗組員17人の釈放と船体の返還に1000万ルーブル(約4600万円)を要求している。








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カムチャッカ半島

2007-08-11 21:52:15 | 温泉紹介
温泉紀行の締めくくりは、8/7(火)~8/11(土)、5日間の秘境カムチャッカ紀行。成田よりペトロパブロフスクまで約3時間30分。「火の国」カムチャッカには源泉が164箇所もある。日本の温泉地のイメージから考えると相当違う。屋外のプール型の温泉が森の中にあり、水着を着て男女一緒に入浴。日本の温水プールの様だ。
泉質;単純泉
パラトゥンカ温泉
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