さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

大室城跡

2019-12-18 11:40:40 | 閑話休題
台山公園にある大室城跡の石碑


公会堂の敷地に移された「山王神社」
■山王神社
  滋賀県大津市「日吉神社」が、全国3800余の日吉神社もしくは日枝神社の総本社。徳川家康が江戸城の鎮守として大切にした。京都「祇園祭」、大阪「天神祭」、江戸「山王祭」
■山王信仰
  「山」「王」とも、三本の線とそれを貫く一本の線で構成、仏教の「三締即一思想」を教える山王信仰が流行った。
  一心三観・・・・
  (空観)一切の存在は実体がない。否定的観察。
  (仮観)一切の存在は仮に現象している。肯定的観察
  (中観)この両者がともに備わってはじめて真理を把握しうる。
   ・・・・この三観をひと思いに、一時に観察するとき、ものごとは見えてくる。(瞑想)

■中世の大室城付近の歴史
(1)茨城県稲敷郡は、鎌倉時代(1192年~1333年、約140年間)「信太荘」と呼ばれる荘園であった。
鎌倉の初期、信太(しだ)は、その本家を八条院にもっていた。鎌倉末期の1318(文保2)年、後宇多条皇が、信太を京都の東寺に寄進、東寺の支配に変わり、地頭には小田家の祖八田氏が任命された。

※ 東寺(とうじ)
 東寺は、京都市南区九条町にある全ての真言宗寺院の総本山、根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある寺院。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる。山号は八幡山。本尊は薬師如来。 東寺は平安京鎮護のための寺院として計画された ...

※ 荘園制度
8~16世紀の土地制度で,貴族・社寺の私有地である荘園を基盤として土地・人民を支配する仕組み。日本の場合,荘園の領主を本家(ほんけ)・領家(りょうけ)といい,荘官(しょうかん)に荘園を管理させ,年貢を徴収させた。藤原氏の平安時代に荘園は広がったが,鎌倉時代に入ると地頭が荘園を治めた。
室町時代に守護大名・戦国大名の領国支配が強まると,荘園制度はくずれはじめ,豊臣秀吉の太閤検地によって,荘園制度は完全に廃止された。

※ 地頭(じとう)
 鎌倉時代,源頼朝が各地の荘園においた職。御家人が任命され,土地の管理,年貢の徴収,警察の仕事をした。
 国ごとに設置された守護とともに,地頭は幕府が全国を支配するうえで大きな役割をはたしたが,南北朝時代には,力を強めた守護大名の家臣となっていった。

(2)当時、信太荘は上条と下条の分かれ、阿見の上条は、上杉重能、下条は高師冬が支配していた。その後、1373(応安6)年頃、下条は小田孝朝に与えられた。
(3)1386(至徳3)年頃、信太荘全域が上杉氏の支配になった。上杉氏の家臣として、上条に土岐原秀成が赴任、その頃、阿見地方の上条に城館が築造された。
 その後、土岐原景秀の代に、小田氏(小田城、今のつくば市)の勢力におされ、信太荘は小田氏の勢力下にあった時期がある。

■『大室城跡発掘調査報告書』(昭和59年1月、大室城跡発掘調査会)
 大室城は、霞ヶ浦湖岸の稲敷台地に構築された城館。町内若栗の湯原家に伝わる文書によると、天正5(1578)年、若栗と阿見で起こった野境紛争の記録のなかで、この当時の阿見の地頭は土岐氏の一族である「土岐五郎」であった。
 土岐五郎は、領地を支配しただけでなく、軍事勢力の統帥でもあった。日増しに高まる戦国情勢の激しさに対応して、この地に大室城を構築したのだろうか?
(現在は開発されて、レイクサイドタウンとなっている。昭和57年6月9日、日本中央地所(株)が宅地造成申請)

※戦国時代に作られた城跡は、茨城県内1100以上ある。
※土岐氏(江戸崎城)は戦国末期には北条方につき、佐竹軍(豊臣方)と対立、豊臣秀吉の小田原攻め以降、江戸崎勢力は豊臣秀吉の軍門に降り、土岐氏の諸城は、その後廃城となった。


右手は本郭(ほんくるわ)、左手畑地は西郭(にしくるわ)




本郭から霞ヶ浦を臨む(眼下には二段構えの帯郭(おびくるわ)

※郭(くるわ、曲輪)
城郭内にある一定区画を分かつ区域を「郭」いう。兵士の駐屯施設として、城郭の重要施設。
※帯郭
城郭の郭(くるわ)の一つ。一つの郭の外側に帯状に設けた郭のこと。

※土塁は敵の侵入を防ぐため城などの周囲に築かれた連続した土盛りのこと。堀とセットとして作られ、堀を掘った土で作られる。


東虎口(こぐち)土塁の残欠

※東虎口
東の出入り口、虎口(こぐち)とは、城郭、あるいは郭(曲輪、くるわ)の出入口。虎口は城攻めのとき、寄せ手が肉薄する攻防の要所となる。

■『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』の世界
 713(和銅6)年、平安京の元明天皇が、中国の晋の「風土記」にならって、諸国に向け、「各地の物産は? 土地の肥沃度合はどうか? 地名の由来は? 長老の伝えるその地域の伝承を記録して報告せよ」との詔(みことのり)を発した。
その時のものが5つ残っており、五風土記といわれている。
『常陸国風土記』の他、播磨国、出雲国、豊後国、肥前国がある。
 この報告書によると、阿見の昔の地名呼称は、「信太郡(しだのこおり)」の「高来(たかく)の里(さと)」であった。・・・「町立竹来中学校」の名前の由来になった?
実情説明によると、高来の里は「鹿などの狩猟にめぐまれ、浜では多くの海苔(のり)がとれる。」と記録されている。
コメント
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