さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

有蓋掩体壕

2024-03-26 20:58:45 | 閑話休題







2024.3.24阿見町指定史跡「霞ヶ浦海軍航空隊 有蓋掩体壕」見学
 1943(昭和18)年末から戦況の悪化に伴い多くの掩体壕が造られた。 掩体壕(えんたいごう)とは、敵の空爆から軍用機を守り、隠すために造られた施設。 コンクリート製または木造で屋根 がある「有蓋掩体壕」と、屋根がない「無蓋掩体壕」に大別される。無蓋掩体壕は上空から見えにくくするため、飛行機の上に木の枝を置いたり、偽装網をかけることもあった。町には当時、有蓋(21基)・無蓋合わせて100基を超える掩体壕があった といわれている。  
 終戦後、霞ヶ浦海軍航空隊跡地は、区画整理され、地域周辺農業者には増反地(ぞうたんち)として、入植者には陸田造成の目的を以て配分された。入植者は外地引揚者、復興軍人、周辺地区の次男・三男坊だった。掩体壕はコンクリート製の大型構造物であり、取壊しが困難であったため、掩体壕ごと払い下げられた。
所有者の山田敏子さん(85)は、長男の嫁。山田家の亡くなったお父さんは沖縄出身、台湾からの引き揚げ者だった。父母、子5の計7人が約10年間、この掩体壕の中で生活した。お父さんは、台湾で教員生活、引き揚げ後も、教員をしながら田畑の開墾作業など、終戦後の食糧難の時代を過ごした昔話を伺った。
山田家の有蓋掩体壕は、阿見町に現存する唯一の有蓋掩体壕で、阿見町指定文化財になっている。
昨年、JR東日本地方文化事業支援2023年度対象事業の支援により、亀裂の充填、強化剤・撥水剤などの修繕を行った。



【茨城大学農学部】 大寒桜
この道路は通称「茨大通り」といわれ、戦後に植えられた桜並木は見事。
 茨城大学は、農学部の2年生から修士課程までの学生が在籍して学んでいる。現在の農学部は、グラウンド・体育館・馬場等のある甲地区と、管理棟・研究室・教室・同窓会館・食堂等のある乙地区と、農場の3つの地区が道路を挟んで隣接している。乙地区に残る霞ヶ浦海軍航空隊関連の戦跡を見学。
 この辺り一帯は1922(大正11)年に発足した霞ヶ浦海軍航空隊が占有していた。航空隊の本部が設置され、海軍航空機の操縦、整備等を行う人材の育成が行われていた。



★ コンクリート製の方位盤 (阿見町指定文化財)
 直径約2mのコンクリート製の円盤に、この地を中心に据えて360度の方位を5度ごと72に分ける放射状の目盛り線が描かれている。その目盛り線の間に、遠くにある著名な都市名が彫られている。海軍機は通常 海上飛行となるため、自己機の位置を常に把握する必要があり、また空中衝突等の事故防止のため、方位等について厳しく指導された。航空隊員たちは日常的に自分の位置、方位、風向き等を把握しながら飛んでいたといわれ、主な都市と方角を目安にして、その都度進行方向を微調整して飛んでいた。この方位盤は、その操縦教育の一端として、基地からどの方角にどの都市があるかを把握するために利用されたという。
 また、隊員たちがここに集い、互いに出身地の方向を確認して故郷をしのんだ場所でもあったらしい。



★ 第一士官宿舎の正面階段に使用されていた親柱 (阿見町指定文化財)
 この柱は、大学の甲地区に在った霞ヶ浦海軍航空隊第一士官宿舎正面階段に使用されていたもの。第一士官宿舎は1929(昭和4)年、茨城県下で行われた陸軍大演習における昭和天皇行幸にあわせて建築され、鉄骨レンガ造二階建て、内外装は漆喰仕上げという立派なものだった。
終戦後、その建物は農科大学、茨城大学へと引き継がれたが、1995年(平成7)年に取り壊された。階段の親柱一対が、5年後に構内乙地区に建設された霞光荘(同窓会館)に移築された。



1932(昭和7)年土浦商工会誌に掲載、戦前期における土浦の観光案内図。
1921(大正10)年、日本で3番目の海軍航空隊基地、霞ヶ浦海軍飛行場が開設された。
常磐線、筑波鉄道、常南電気鉄道の3つの鉄道路線、格納庫、陸上班、水上班が案内図にある。


タラヨウ(郵便局の木)
この葉っぱに切手を貼り「はがき」として使えるらしい。

★ 「海軍のまち、阿見町」
にわかに海軍航空部門の拠点となった農村は、軍の都合で改造され、戦局とともに拡張し、村域の4割ほどが軍用地になったとされる。1944(昭和19)年には、村の人口が1万人を突破した。(大正初期の3倍強)
1945(昭和20)年終戦を迎え、復興をどうするか?軍事施設をどうするか?食糧難、切迫した貧しさ。・・・飛行場はすぐ農地へ、自衛隊(当時警察予備隊)誘致、学園都市構想で村の再生を目指すことになった。かって「空の港」と称された「阿見」は、「軍都」とよばれることがあった。
近年、阿見町の人口は、長らく48,000人前後で横ばいになっていた。高速道路のインターチェンジが町内に2か所設置されるなど、JR荒川沖駅も含め、首都圏や近隣地域からの交通利便性の高まりを受け、工場誘致、町内の市街地開発が活発化し、特にここ数年で人口が急増している。総務省が発表した2022(令和4)年の住民基本台帳に基づく人口移動報告では、全国の町村で転入による人口増加が最も多かった町となった。
2023(令和5)年11月1日時点で5万14人となり、初めて5万人を達成した。令和7年の国勢調査で人口が5万人を超えていると、町は単独での市制施行に必要な人口要件を満たす。町は、来たるべき市制施行に向け市制施行準備室を設ける等、検討と準備を始めている。






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