さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

死海の浮遊体験

2010-02-26 11:32:18 | 海外旅行
死海(Dead Sea)は、海面下 約420mと世界で最も低地にある湖。エルサレムから、東へ車、約1時間30分の所にある。細長い形をした湖はヨルダンとの国境に位置している。水源は、ガリラヤ湖、ヨルダン川をつたって死海に流れ込む水の出口はなく、雨量が少ないので、水量は毎年、減少の一途。たまった水は強烈な太陽光線でどんどん蒸発、水中の塩分が濃縮されてしまう。
塩分が普通約3%に対し、死海は約33%もあり、濃い塩分濃度のため、沈むのは困難、浮かびながら本が読めるという不思議な塩湖。死海の水は、豊富なミナラルを含んでおり美容や健康に効果大。
「死海」という名は濃い塩分のため魚が住めないところに由来する。
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エルサレム「嘆きの壁」

2010-02-25 16:01:40 | 海外旅行
嘆きの壁
 ヘロデ大王によって完全改築に近い形で大拡張された神殿を取り巻いていた外壁の西側の部分であり、ユダヤ人は「西の壁」と呼んでいる。現在広く使われているWailing Wallの名称は1917年にイギリス人によってつけられたとされ 、これは19世紀のヨーロッパの旅行者が、この壁を「ユダヤ人が嘆く場所」(英語:wailing place of the Jews)と呼んだことに由来する 。なお「嘆き」とは、神殿の破壊を嘆き悲しむために、残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現している。
 嘆きの壁の全長は約488 m、一般には神殿の丘の西側外壁のうち地上に見えている幅約 57 mの部分のみを指す。この部分は広場に面しており、壁の前が礼拝の場所になっている。神殿の丘にあたる場所は元は自然の高台であり、紀元前10世紀頃からすでにこの上に神殿(エルサレム神殿)が建てられていた。これが紀元前19年頃になってヘロデ大王によって大幅に拡張された。これが現在の神殿の丘であり、その西側の土留壁が現在の嘆きの壁である。
広場の前における壁の高さは約19m。地下に埋まっている部分も含めると32m。

□イスラエル
1.国土の面積  2.2万K㎡(日本の四国程度)(注1)
2.人口     約700万人
3.首都     エルサレム(注2)
4.民族     ユダヤ人(約76%)、アラブ人その他(約24%)(2006年)
5.言語     ヘブライ語、アラビア語
6.宗教     ユダヤ教(76.8%)、イスラム教(15.5%)、キリスト教(1.7%)、
       ドルーズ(1.6%)
7.略史
 ユダヤ民族の歴史は聖書の創世記に始まる。紀元前10世紀古代王国が栄えるが、やがて王国は北と南に分裂し、各々アッシリアと新バビロニアに滅ぼされる。その後、ギリシャ、ローマの勢力下におかれ、最終的にローマに反乱を起こしたが、鎮圧されて古代ユダヤ史は幕を閉じた。以後、2千年近くにわたりユダヤ民族は世界各地に離散。19世紀末欧州で勃興した反ユダヤ主義を契機としてシオニズム運動が起こり、20世紀初頭よりユダヤ人のパレスチナ移住が増大。
1947年国連総会はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分裂する決議を採択、イスラエルは決議を受け入れ1948年独立を宣言。1948年、1956年、1967年、1973年と周辺アラブ諸国と4度にわたり戦争。その後、1979年にエジプトと平和条約を締結。現行和平プロセスにおいて、1994年10月ヨルダンと平和条約を締結。パレスチナ解放機構(PLO)とは、1993年9月、相互承認を行い暫定自治原則宣言(オスロ合意)に署名。その後、暫定合意に従い、イスラエルは西岸・ガザの主要都市から撤退し、代わってパレスチナ暫定自治政府による自治が実施されている。
(注1)数字はイスラエルが併合した東エルサレム及びゴラン高原を含むが、右併合は日本を含め国際的には承認されていない。
(注2)日本を含め国際的には認められていない。
■日露戦争とユダヤ
日露戦争(1904-1905年)で、日本は大国ロシアに勝利した。1904年4月日本銀行副総裁:高橋是清とニュウヨークのクーン銀行のヤコブ・シフ(ユダヤ人銀行家)とが、ロンドンの会食で、出会った。当時、ロシアは、ユダヤ人を迫害していた。極東進出を警戒したヤコブ・シフ(ユダヤ人銀行家)の資金援助で、日本は戦費の50%を調達することに成功し、戦争に勝利した。
■杉原千畝の物語
昭和15(1940)年、カウナス(当時のリトアニアの首都)にある日本総領事館で執務に就いていた杉原は、ナチスドイツのポーランド侵攻によって、祖国を追われたユダヤ系ポーランド人たちに「ナチスの迫害から逃れるために、日本通過のビザを発給してもらいたい」と嘆願された。
杉原は早速、外務省に人道的見地から「通過ビザ」発給したい旨の打電をするが、外務大臣の回答はNO。大臣は、ユダヤ人の命よりも外務大臣としてドイツのご機嫌を損ねることを気にしていた。
四日間が過ぎた。杉原は人間として悩みに悩んだ。外交官として、外務省の意向をとるべきか、それとも人間として、目の前の助けを乞う人々の命を救うべきか。その時、彼は次のような妻の言葉に勇気を貰った。
「あなたの足かせにはなりたくない。どうぞ思うようになさってください。」
こうして、杉原の気持ちは決まった。
「よし、彼らにビザを発給してやろう」
杉原は自身の外交官としての職務よりも、今人としてなすべき事を選択した。目前で死の恐怖に曝されている人間の命を救う以上に尊いことはない。強い信念が彼の命がけの行動を支えた。杉原は、述べ六千枚に上るビザを、寝る間も惜しんで発給し続けたのであった・・。
六千人のユダヤ人の命を救った杉原は、昭和二十二年(1947年)、終戦間もない祖国日本に帰国したが、杉原の行動が「訓令違反」であったということで解任され、長い失意の時を過ごした後、様々な仕事を転々とし30年経ったが、依然として杉原の名誉は、回復されなかった。

しかし救われた人々は、恩人Tiune Sugihara(チウネスギハラ)を忘れていなかった。昭和六十年(1986年)イスラエルは、「諸国民の中の正義の人賞」を杉原に贈ることを決めた。イスラエルは、杉原の勇気を最大限に讃え、エレサレムの丘の上に顕影碑まで建立した。この時、既に杉原は85歳となっていた。
彼の命がけの行為は、こうして世界の人々に知られるようになった。杉原は日本の外交官から、世界の「人道の人、チウネスギハラ」となった。しかし日本の外務省は、杉原の存在を公的には無視し続けた。祖国において名誉の回復がなされぬまま、翌年、杉原は、自宅鎌倉で、波乱に満ちた生涯を閉じたのであった。
これが、「日本のシンドラー」と言われる杉原千畝の物語である。


外交・国防
1.外交基本方針
(1)イスラエルの外交方針は自国の安全確保を第一としている。国外のユダヤ人コミュニティーからの支援を後ろ盾としつつ、特に米国との友好関係を最重要視している。
(2)アラブ諸国のうち隣接するエジプト、ヨルダンと和平を結んだことにより、周辺国との戦争の可能性が低下した一方、その外縁部にあるイランの脅威が相対的に浮上し、同国における弾道ミサイルや核、化学・生物兵器等の開発の動向に警戒感を強めている。
(3)1991年のマドリード会議を皮切りとして始まった中東和平プロセスは、これまでオスロ合意の締結、ヨルダンとの和平条約締結等により、一部アラブ諸国との関係改善を成し遂げる等、大きな進展を見せたものの、2000年9月のパレスチナとの衝突発生以来、同プロセスは停滞。2006年1月のシャロン首相の緊急入院による突然の政界引退、その後のパレスチナにおける過激派組織ハマスの躍進(特に2007年6月以降はハマスがガザ地区を掌握。)などにより、和平プロセスは再び停滞。
2.軍事力
(1)兵役:男子3年、女子19-24ヶ月(更に予備役あり)
(2)兵力  正規軍 17.7万人(陸軍13.3万人、海軍1万人、空軍3.4万人)
      予備役 40.8万人(陸軍38万人、海軍3,500人、空軍2.45万人)
(3)主要装備:戦車3,510両、装甲戦闘車6,750両、水上艦艇57隻、潜水艦3隻、戦闘機(F-15、F-16)401機、攻撃ヘリコプター88機
貿易品目
(1)輸出 ダイヤモンド、機械類、化学製品、農産品等
(2)輸入 自動車、機械類、光学・医療機器、化学製品等
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