さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

雨引観音(桜川市)

2009-05-31 18:48:11 | 閑話休題
楽法寺(雨引観音)  坂東二十四番札所 ご本尊は延命観世音
●創立587年。 用命天皇の御代(586年)に、中国梁の帰化僧・法輪独守居士が創立した。雨引の名は弘仁12年(821年)旱魃で飢饉にあった時、嵯峨天皇の勅命によって雨を祈ったことから名づけられたと伝えている。建長年間(1249~55年)建立の仁王門には運慶作と伝える仁王像が安置されている。
●推古天皇の病気を祈願し、効験あって祈願寺となり、後に光明皇后は自身の安産祈願のため、法華経一巻を書写して奉納した。 以来皇室の安産子育の祈願所となって「安産の観音さま」で知られるようになった。 ご本尊の延命観世音は秘仏で拝することはできないが、お前立観音像を拝することはできる。
●前住職川田聖見師は真言宗豊山派の管長をつとめている。
 
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筑波山 大御堂

2009-05-31 18:19:20 | 閑話休題
大御堂 第二十五番札所、真言宗豊山派
●創立 延暦元年(782年)
 明治の神仏分離令が出るまでは現在の筑波神社と大御堂とは同体であった。
 寺伝によれば、この霊山は徳一法師によって開かれ、弘仁年間(810~824年)弘法大師によって真言密教の霊場となったという。
●江戸時代の盛観
 江戸時代に、朱印500石を得て中興。徳川家光はことのほか尊崇し、三重塔・鐘楼・楼門などを建造した。『筑波山名跡誌』にはこのことを「将軍家の御崇敬浅からず、神社仏閣湧くが如くに興隆し、人法繁昌古への千倍なり」と書き綴っている。 なお貞享3年(1686)には寺領1500石の寺格を有する大寺となり、18支院、300の住僧を数えたという。参拝者・巡礼者もきわめて多く『筑波山縁起』によれば「近国他国より参詣の輩、袖を連ね裾をからげ、昼夜の堺も無く、山の繁昌時を得」たる有様であった。
●だが明治初年、神仏同体の思想を否定する悪令によって筑波山が激変を余儀なくされ、外来性と伝統性とを包含した由緒に富む習合文化は破壊されてしまった。

●六観音さま
 三十三観音札所は観音さまの三十三身応現の数にあわせた信仰。各札所のご本尊さまは「聖・十一面・千手・馬頭・如意輪・准胝あるいは不空絹索」の観音のうちの一尊をおまつりしているのです。
 当寺のご本尊さまは「千手観音」さまです。千本の手を持っておられるわけで、この多くの手はわたしたちを幸せにしてくださるために、その人、その人に応じたいろいろな方法手段を観音さまが用意しておられるためのお姿です。たしかにこれだけ多くの手ですと一度に何人でも救っていただけるわけで、まことに有難いことです。
 それにこの千本の手には一つずつ眼がありますので、そのどれかの眼で見守っていてくださると思うと、とても安心です。ですから拝んでいても千本の手が少しも不思議ではありません。坂東では十一面観音さまが十四ヶ寺、次いで千手観音さまが十二ヶ寺と多いのも、この千手観音さまを心から頼みにしている証拠でしょう。
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清瀧寺(坂東33霊場、新治村小野)

2009-05-31 09:55:26 | 閑話休題
清滝寺  第二十六番札所 真言宗豊山派 ご本尊「聖観世音菩薩像」
●創立  この寺の草創は推古天皇15年(607年)聖徳太子の作品、聖観音像を安置したことにある。この地は筑波山における古代の信仰圏内である。鹿島・香取の信仰ルートにも関係深く、相当古くから文化的に開けた地域で、観音信仰の導入も早かった。
●鎌倉時代 幕府の功臣八田知家(小田氏)の保護により栄えたが、室町時代に、常総の野に繰り広げられた戦乱の兵火の中に、その堂宇と什宝を消した。だが元禄年間(1688~1701年)本堂が再建され栄えた。
●明治維新を境として急速に寺運は衰え「無住」の期間も相当長く大字小野の人たちが輪番でこれをささえてきた。大正14年刊の『新治郡郷土史』に永禄・元亀の戦いの折も「時に尊体依然たり」とある如く、ご本尊さまは信徒のカで護持されてきた。
●昭和44年不審火により山門のみを残し焼失してしまった。「昼火事だったが、火の勢いが強くて、気がついた時は、もうご本尊さまをお出しすることはできなかった」と村の人たちは嘆いている。最近、大字小野再建委員会の尽力で立派に再建されたのは、一ヶ寺でも欠いては板東巡礼にならぬとの尊い悲願の結晶といえよう。-
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天和池

2009-05-05 08:02:25 | 閑話休題
明治34年夏、丸山敏雄先生が9才のとき、家の近所にある農業用水の天和池で遊んでいて、いとこと共に池で溺れるが、近所の青年・高橋孝六氏(21)に命を救われた。小さかったので気恥ずかしく、高橋孝六さんに面と向かってお礼を言えなかった。それから、先生は高橋家に向かって一礼するのが習慣になったとのこと。(感恩感謝の原点!「なかりし命」・・・)
天和池の向こう2~3分の所にご両親の墓(「帰一如」と彫っている)がある。昭和22年1月、先生55才のとき、従兄の長男・丸山隆の結婚式に呼ばれ帰省した。両親の墓で、亡きご両親にわび「私は両親ありての私」「人間は父母の純愛に触れなければ何もわからない。」と、この時、悟った。その結果、「人間生活の絶対の倫理が始めて明らかになった」と述懐されている
丸山敏雄先生、昭和26年12月14日、59才、武蔵境・高杉庵で 永眠。
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天和「合八幡神社」

2009-05-05 07:54:58 | 閑話休題
丸山敏雄先生は子供の頃、家の近所にある八幡神社でおにごっこ、かくれんぼ、ドングリ拾いなどをして遊んだ。ある日、友達の家で遊んだ帰り道、八幡様に一礼するのを忘れて通り過ぎるのを、お父さんに偶然見つかってしまった。さんざん、厳しいお父さんに怒られ、梁から逆さまに吊り下げられたとのこと。
神社には、フクロウが棲んだシイの木があり、大正12年、丸山敏雄先生31才、久留米の中学の教師をしていつとき、野鳥研究に熱心な校長先生に「郷里の神社には、フクロウが毎年やってきて、巣ごもりをしています・・・」としゃべったところ、校長先生がこれは聞き捨てならないと、夏休みに天和に出かけ、2人で、フクロウの飛来をまって一週間も野宿したとのこと。
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社団法人倫理研究所「天和会館」

2009-05-05 07:48:53 | 閑話休題
天和会館
生家との調和を考えて、建て替えた。平成20年11月24日に完成したばかり。素材は、生家と同じく日本の自然が生み出した素材を生かす栗の木をふんだんに使用。ガイドをしてくれた丸山美恵子さん(事務)はひじんさんが丸山敏雄先生の兄弟にあたる人に嫁いできたお嫁さん。前の事務員が60才の定年になり、スーパーのパート店員をヤメ、天和会館に平成19年2月1日より勤めている。
彼女の説明では、茨城より天和に訪ねてきた方は、筑西市の佐藤氏、櫻井氏、龍ヶ崎市の平野氏、土浦市の大橋氏、日下氏の5人。私は6番目の訪問者となった。  
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丸山敏雄の生家

2009-05-05 07:37:29 | 閑話休題
丸山敏雄先生のふるさとを訪ねる旅をしてきました。
□ 丸山敏雄先生 明治25年5月5日(1982)父・半三郎(38)、母・ギン(33)の四男として出生した。

□ 住所 福岡県豊前市天和 JR日豊本線「宇島駅」より車20分
       宇島駅は、北九州から特急で30分のところ。 
□(旅行のコース)
2009.4.18(土)羽田空港9:40~大分空港11:15→臼杵(石仏、”志の碑”50基)→竹田(滝廉太郎の生家、日本一の古城”岡城”)→長湯温泉(日本一の炭酸泉)
2009.4.19(日)日田(咸宜園 江戸期日本一の広瀬淡窓の私塾)→耶馬溪(青の洞門)→中津(福沢諭吉の生家)→宇佐(宇佐神宮)
2009.4.20(月)豊後高田(昭和の町)→福岡県豊前市天和(丸山敏雄先生の生家、天和会館)→大分空港18:25~羽田空港19:45
□ 丸山敏雄先生の生家
小高い丘にあった生家、日本の風景が残っている。平成18年5月5日に完成 高台の馬の背のような土地、子供の頃、遊んだ神社(合八幡神社)、遊んでいて落ちた池(天和池)、両親の墓がある。(設計;降幡建築設計事務所;古民家再生の第一人者、建設;(株)高原建設)
 日本固有の風景、匂い、安心感、温もり、気
 素材・・・木、土、しっくい、瓦、畳のい草、障子の和紙

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豊後高田『昭和の町』

2009-05-04 20:15:51 | 閑話休題
昭和の町
 豊後高田市の中心商店街は、江戸時代から明治、大正、昭和30年代にかけて、国東半島一の賑やかな町として栄えていた。 昭和30年代の古い町並みがそのまま残っている豊後高田市の中心商店街を“昭和の町”というテーマで再生し町おこしをして全国的に有名になった。現在も地方の商店街は似たような状態で残っているがこれを観光地にしようと目を付けたからなかなかのものです。
 昭和30年代といえば高度成長期まっただなかで、日本全国元気がありました。紙芝居や力道山やオート三輪車、ポンポン菓子、駄菓子屋さん、テレビや冷蔵庫、洗濯機が家庭に初めて入ってきた時代。経済的には貧しかったけれど、どこか賑やかで、 隣近所が肩を寄せ合いながら、助け合いながら生きていました。そこそこ幸福で、心に余裕がありました。
 “これ我が家にもあった”と、40代より上の人にはなつかしい町。
昭和ロマン蔵
 大分県きっての豪商であった野村家の倉庫(昭和10年頃の建築)を改造し、昭和の町”の中核施設としてオート三輪車や紙芝居などの展示、木製の机のある学校の教室など、なつかしい昭和が中に再現されている。中に“駄菓子屋の夢博物館”があり、昔の駄菓子屋の再現や“男はつらいよ”などのポスターやおもちゃ、雑誌などの展示がある。(入館券 大人800円)
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全国八幡社の総本宮『宇佐神宮』

2009-05-04 17:34:31 | 閑話休題
宇佐神宮は、大分県宇佐市にある。全国四万四千社の八幡宮の総本社である。正式名は「宇佐神宮」だが、「宇佐八幡」あるいは「宇佐八幡宮」とも通称される。
□神仏習合のはじまり
奈良時代のわが国は、中国の唐にならって、律令国家(りつりょうこっか)の建設を進めていた。しかし、東北の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)はその中に組み込まれることに強く抵抗。8世紀のはじめころに起きた隼人の反乱を制圧するため、八幡神を神輿に乗せに宇佐の人々も参加して戦った。隼人との戦いで殺生(せっしょう)の罪を悔いた八幡神が、仏教に救いを求めた。これを契機に、宇佐での神と仏が習合した先進的な思想が生まれたとのこと。
□神輿(みこし)発祥の地
今から1250年ばかり前、「咲く花の匂うがごとく」とうたわれた奈良の都で、世紀の大事業である東大寺の大仏建立が着々と進められていました。その東大寺へ宇佐宮の女禰宜(にょねぎ)・大神杜女(おおがのもりめ)が八幡神の神輿(みこし)のお供をして、紫の輿(こし)に乗って転害門(てがいもん)をくぐりました。東大寺では八幡神を迎え、聖武太上天天皇、考謙天皇、光明皇太后の行幸のもと、文武百官も列席し、僧侶5000人の読経、五節舞(ごせちのまい)などの法要が賑々しく営まれました。三年後の天平勝宝4(752)年に東大寺大仏開眼法要が、インド、ペルシャの僧をはじめ1万人の僧侶が列席して、5000余りの楽人(がくじん)などによって盛大に営まれました。
奈良の都から遠く離れた宇佐の八幡神がなぜこのような晴れがましい待遇を受けたのでしょうか。聖武天皇は国家的大事業として東大寺を建立していました。日本は神の国です。天皇が沢山の費用を使って仏教寺院を建立すれば、貴族からどんな反対の意見が出るかもしれません。そんな心配のある時に、宇佐の八幡神から「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障(さわ)ることなくなさん」という協力の託宣が出されました。八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させるというのですから、聖武天皇にとって、これほど心強いことはありません。大仏に塗る金が不足すると金は必ず国内より出るという託宣を出し、やがて陸奥国(岩手県)から金が献上されてきました。東大寺が完成すると東大寺をまもる神として、寺の近くに手向山八幡が分霊としてまつられました。八幡神は奈良の人々に強力な印象を与え、国家神としての第一歩を踏み出したのでした。
 この時始めて、宇佐宮で神輿を造り女祢宜である大神杜女が、八幡神を擁し紫の神輿に乗って奈良の都に入京したのが神輿の始まりとされています


























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福沢諭吉の生家

2009-05-04 16:06:27 | 閑話休題
福沢諭吉は、1835年1月10日(旧暦では天保5年(1834年)12月12日)大阪堂島にあった中津藩・蔵屋敷で、中津藩士:福澤百助の2男3女の末子として生まれた。 1歳6ヶ月のとき父が死去した ため、兄姉とともに母に伴われて一家6人郷里の中津に帰り少年時代を過ごした。儒学者・白石照山のもとに数年間入塾。安政元年(1854)、19歳の時蘭学を志ざして長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の適塾で猛勉強に励みました。安政5年(1858)には、中津藩の蘭学教師として江戸に上り、蘭学塾を開きました。これが後の慶應義塾のはじまりです。西洋の語学力と知識をたくわえた諭吉は、万延元年(1860)渡米使節の従僕として「咸臨丸」に乗り込み渡米。以後、ヨーロッパ諸国も歴訪し、議会や郵便制度、銀行、病院、学校など旺盛な好奇心で見聞きを広めました。明治34年(1901年)脳出血で66歳の波瀾の生涯を閉じました。
一万円札の顔として知られる福澤諭吉は、慶應義塾の創始者でもある。
 著者『学問のすすめ』『『西洋事情』 ほか多数を執筆し自伝に『福翁自伝』がある。なかでも教科書のバイブルとして学問のすすめは有名。
□『学問のすすめ』・・中津市学校開設に当たり、中津の若者向けに書いたもの。封建的な身分制度を支える儒教思想を批判したり、実証的な学問の大切さを説いた。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり・・・」の文は、初編の書き出し。また、本書で、国民は自分の勉強不足を棚に上げ、政府に対する不満ばかり口にしている、と批判し、「この程度の国民だから、国家もこの程度なのだ。学問をしろ、馬鹿者ごもめ!」と冷や水をあびせている。
□『帳合之法』・・日本における西洋簿記学の最初の文献。まだ、「簿記」という訳語がなかった時代。
□『西洋事情』・・ヨーロッパやアメリカ滞在中に見聞したものをまとめたもの。西洋諸国の経済の実情や学校教育、病院、電話機、ガス灯などあらゆる施設や制度を紹介している。徳川慶喜が『大政奉還』を決意するきっかけになったといわれる。新政府の「五箇条のご誓文」などにも大きな影響を与えた。
□ 講演活動・・・「物事を変える時には、アジテート(扇動)しなければいけない」という考えがあり、激しい講演活動もおこなっていたので、命をねらわれることがあった。しかし、これで命を取られるなら本望だ、と涙ながらに語り、国民を啓蒙し続けたという。
  
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