さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

冬の名所「イルミネーション」

2009-12-27 14:24:30 | 閑話休題
冬の名所、評判のイルミネーション見物。なんと、駐車場で交通整理する人、屋台も出ていて驚きました。三郷解体という会社の太田社長の自宅です。
太田社長宅のイルミネーション
茨城県かすみがうら市坂1754ー1
点灯時間 午後5時~10時頃
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おぶせ温泉「あけびの湯」

2009-12-11 10:55:18 | 温泉紹介
あけびの湯
朝風呂(午前6時)に入るため、おぶせの「穴観音の湯」(平成3年のオープン)へ行ったが朝風呂がなくなったので、兄弟が隣で平成13年にオープンした「あけびの湯」にて入浴。やはり、設備が新しく豪華できれい、北信五岳が楽しめる絶景露天風呂を楽しみながら一番風呂に入った。
□温泉でバスタオルを置かないわけ
昔ながらの温泉地に行くと、「タオル(手ぬぐい)はあるのにバスタオルがない」という話は良く聞きます。では何故でしょうか。
特に有効成分の豊富な温泉では「身体を拭いて欲しくない」のです。温泉は硫黄を多く含んでいます。硫黄は皮膚から浸透して末梢血管から身体の隅々まで行き渡り、皮膚表面では殺菌、体内では血糖値の降下などの効果を発揮します。またこの効果は12~24時間程度持続するともいわれています。このため皮膚表面についた温泉の成分は洗い流したり、拭き取ったりしない方が良いわけです。
硫黄に対して過敏症がある人は洗い流して身体もきちんと拭いた方が良いですが、通常は手ぬぐいで軽く表面の水分を取ってから、出来る限り自然乾燥に任せた方がより温泉の効果が期待できます。
少し入浴時間に余裕を持って脱衣所で自然乾燥する習慣をつけるのが温泉通だそうです。

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あさしな温泉

2009-12-11 10:47:07 | 温泉紹介
あさしな温泉「穂の香の湯」
上信越道佐久ICから車で約15分、田園情緒豊かな所に、平成5年に開湯。高台に建つ露天風呂からは浅間山、佐久平が眺望でき、優雅な開放感を味わえる。清潔な風呂、地元の人の憩いの場となっている名湯。
□泉 質  ナトリウム・カルシウム−塩化物温泉
□源泉温度 29.6℃
□効 能   神経痛、婦人病、冷え性、関節痛、切り傷
□所在地  佐久市浅科甲1071-1  地図
      tel;(0267)-58-0033
□休館日  毎週火曜日(祝祭日は営業)開館時間;10時~22時
□入浴料  350円(子供200円)
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小布施『浄光寺』

2009-12-11 09:30:40 | 閑話休題
りんごと温泉めあてに長野へ、宿泊先のユースホステル「おぶせの風」の朝食時に知り合った人に誘われて、浄光寺に参詣しました。
最近、副住職が自由に楽しみながら筆で字を書く「筆遊び」に力を入れている。観光客の体験入学が可能。
副住職の朝の読経の後の説教・・・・宗派の会合で、全国から大勢の若い僧侶が集まり講演会があった。「佐賀のがばいばあちゃん」島田洋七の「人生山あり、谷あり」のお話・・・
私の母親から小さい時に教えられた3つの教えのお話・・・
①お坊さんは、背中を拝んでいただけるような人にならないといけない。人格を高め、精進しなければならない。
②毎日の日の出、1月1日の初日の出を拝むのは意味がある。12月31日の日の入りを拝みなさい。1年間、無事に過ごせた感謝の思いです。
③歳よりのお話を一生懸命、心から聞きなさい。多くのことが学べます。
・・・朝から心が洗われる良いお話でした。

浄光寺は国の重要文化財;薬師堂(室町初期1408年建立)があり、2008年で建立満六百年を迎えた。2007年に茅葺屋根も葺き替え工事を行い綺麗になっている。薬師如来は人々の寿命を延ばすことを本願とする二世(現世と来世)利益の仏様との事。毎月1日11時から薬師堂内で護摩法要が行われ、誰でも祈願できる。また縁結びのお薬師さんとしても親しまれている。
茶店の隣には、ご霊泉(湧水)が出ておりペットボトルで持ち帰れる。

島田洋七「おさのばあちゃんの楽しく生きる方法語録」
○嫌われているということは、目立っているということや。
○通知表は、0じゃなければええ。1とか2を足していけば5になる!
○葬式は悲しむな。丁度よかった、しおどきだった。
○人がこけたら笑え、自分がこけたらもっと笑え。人はみんな、こっけいだから。
○生きていることが面白い。なりふりかまうより、工夫してみろ。
○人に気づかれないのが本当の優しさ、本当の親切。
○ケチは最低!節約は天才!
○「暑い」「寒い」と、うるさく言うな。夏は冬に感謝し冬は夏に感謝しんしゃい。
○時計が左に回ったら、壊れたと思って捨てられる。人間も昔を振り返らず、前へ前へと進め!
○世の中には、病気で死にたくない人がいっぱいおるのに、自殺なんて贅沢だ。
○今のうちに貧乏しておけ!金持ちになったら、旅行へ行ったり、寿司食ったり、
着物を仕立てたり、忙しか。
○あんまり勉強するな! 勉強すると癖になるぞ!
○今日、明日のことばかり考えるな。百年二百年先のことを考えろ!孫や曾孫が五百人くらい出来て、楽しくてしょうがなか。
○二股の大根も、切って煮込めば一緒。まがったキュウリも、きざんで塩でもんだら同じこと。
○貧乏には二通りある。暗い貧乏と明るい貧乏。うちは明るい貧乏だからよか。それも、最近貧乏になったのと違うから、心配せんでもよか。自信を持ちなさい。うちは、先祖代々貧乏だから。
○「ばあちゃん、英語なんかさっぱり分らん」
「じゃあ、答案用紙に『私は日本人です』って書いとけ」
「漢字も苦手で・・・・・」
「『僕はひらがなとカタカナで生きていきます』って書いとけ」
「歴史も嫌いでなあ」
「歴史もできんと?『過去にはこだわりません』って書いとけ」
○頭がいい人も、頭が悪い人も、金持ちも、貧乏も、五十年たてば、みーんな五十歳になる。


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伊達正宗ゆかりの寺「蔵福寺」

2009-12-09 20:35:46 | 閑話休題
江戸の昔、茨城県阿見町周辺の村々は、大半が『仙台伊達藩』の領地でした。常陸伊達領は、阿見を中心に一万石の知行地が設けられ、その本陣は、龍ヶ崎に置かれていた。
幕府は、大名領を一場所に集約させず、各地に飛び地として分散させた。今から400年前、慶長11年(1606年)、天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、伊達正宗に阿見町周辺(昔の信田郡大室の辺り)を、味方についた恩賞として与えた。しかし、徳川家康は、伊達正宗を『天下を狙う野望者』として危険視していたため、龍ヶ崎の本陣と、大室との真ん中にある位置、今の吉原周辺、交通の要所に幕府直轄の『天領』を配置した。この阿見町吉原には、『阿見プレミアムアウトレット』が平成21年7月9日にオープン。この村の歴史始まって以来の沢山の人々が連日、訪れているのだ。
□当時の歴史
1606(慶長11)年 伊達政宗は、常陸国に1万国の飛地を得る。
慶長11年12月  正宗の長女:五郎八姫、徳川家康の六男:松平忠輝が結婚
〃 18年     正宗は、支倉常長一行をスペインに使節団として派遣
〃 19年     大坂冬の陣
1615(元和1)年大坂夏の陣
元和2年      徳川家康が亡くなった。
〃 3年      日光東照宮の造営
          後継ぎ:忠宗と将軍秀忠の養女振姫との結婚
〃 4年      仙台藩本領の見分を行った。
1625(寛永2)年飛地として拝領した龍ヶ崎領の見分を行った。

□伊達政宗の足取り
寛永2年8月15日 江戸にて、月見の連歌会を主催
      21日 大御所秀忠、将軍家光より暇乞いの許可がおりる
      23日 江戸を駕籠で出発、翌日、利根川を渡って龍ヶ崎到着
      27日 領内の信太郡追原村(阿見町)の見分や鷹狩り。    
    9月 1日 霞ヶ浦沿岸の美浦村から舟に乗り潮来に着く。鹿島見物。
    9月8~9日頃 江戸に戻った。
※正宗は、8月28日付の手紙を飛騨高山の藩主あてに送っている。その手紙によると、「鷹狩りを楽しみに行ったが、獲物がおらず、退屈であくびがでたよ」と書いてあった。(大阪城天守閣所蔵)
※8月27日前後に伊達正宗(60才のとき)追原村の真言宗蔵福寺に立ち寄ったという記録がある。この寺は、その後も、仙台藩との関わりは深く、代々の藩主は、参勤交代のおり休息所として立ち寄っている。
□蔵福寺
真言宗豊山派の寺院、開山は応永初年(1400頃)、現在の場所に再建されたのは、1660年。伊達家より松20本を拝領して再建したとの記録がある。     
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塙・お不動様

2009-12-09 19:49:11 | 閑話休題
阿見町の名所百選に選ばれている「塙の不動堂」は、阿見町追原の真言宗蔵福寺に所属し、「生延山塙不動尊」と言われ、本尊は不動明王座像です。境内のタブノキの大木は町指定文化財。
むかし、この辺りは、池や潟(かた)で、交通の難所、犠牲者も多かったため、池の辺を鎮護する目的で創立されたとのこと。不動明王は、降魔(こうま)や延命(えんめい)のご利益があるからです。
言い伝えによると、お不動様の住職は、安心して子供を生み育てることが次の世代の繁栄であると固く信じ、人々の安産を祈願し、荒行の火渡りなど苦行を重ねてお不動様のご加護をお祈りしました。近世では、安産・子育て不動として、女性の参拝者に人気。今でも、元旦には蔵福寺のお坊さんが来て、護摩修行を行い、お祈りをしている。
お不動様の吊り鐘のお話・・・
お不動様の住職は、お不動様の教えを信徒に教え、村々にひろめていきました。お不動様が吊り鐘を鋳造するという話が、村々にひろまったとき、みな、我先にはせ参じました。信徒たちは、真っ赤に溶けた炉の中を見つめながら、我が身につけていたカンザシなど金具をその中に投げ入れ、一心にお祈りしました。傍らでは、お坊さんの読経が続き、すばらしい音色の鐘が完成しました。
  「しずかさや 鐘をはなれて かねのおと」 (詠み人しらず)
この吊り鐘は、残念ながら太平洋戦争のとき、兵器製造という目的で徴発されてしまいました。
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