さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

江戸の今昔さんぽ(丸の内)

2020-02-26 10:19:20 | 閑話休題



2020.2.15(土)江戸切り絵図にて、丸の内を散歩。
和田倉御門
東京丸の内は日本の金融、経済の中心地、オフィス街として発展しているが、1590年に徳川家康が居城とする前は東京湾の一部で、「日比谷入江」とよばれていた。この入江を埋め立て江戸城を拡張し、大名屋敷や奉行所などが置かれていた。
 和田倉門は元和6年(1620)に構築され「蔵の御門」とも呼ばれ、士衆通行の橋とされていた。和田「わた」とは海の名称で「わたつみ」と同じ意義で、日比谷入江に望んで倉が並んでいたことで、和田倉と呼ばれるようになった。




北町奉行所跡
 江戸の町奉行は、江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していた。丸の内トラストシティの東側歩道に、復元された石組みの溝と解説板が設置されている。
 「遠山の金さん」のモデル・遠山左衛門尉景元は幕末の北町奉行、天保の改革に反対して僅か3 年で解任された。その際、町人の生活や娯楽を守ったため、「金さん」の芝居が人気を博した。後に南町奉行に返り咲き7年務めた。


南町奉行所跡は、現在の有楽町駅南東側にある。






大手門
この門は、江戸城本丸登城の正門で、10万石以上の譜代大名が警護を務めた。






神田明神跡、将門塚
平将門(931-946)の御首(みしるし)をお祀りしている。
平将門は、今でいう千葉県に拠点を置いていた豪族の一人。将門のおじいさんは桓武天皇の孫。しかし将門のおじいちゃんは、桓武天皇が実施した大規模な皇族リストラによって、“平”の姓とともにランクダウンさせられ、当時ド田舎の関東へ(常総市あたり)と追いやられてしまったという経歴を持つ。
 将門は、平将門の乱が起きる前に、平氏一族での内紛に参加している。この内紛で将門はひたすら勝ちまくった。その結果、地元の関東圏の人々からはと畏怖と尊敬のまなざしを受けることになる。
平氏一族の内紛が収ったあと、将門は国司たち(朝廷から派遣された官僚たち)と、なりゆきで対抗すること=朝廷と対抗することになった。
将門的には、心の底では「なんでウチの家系は元々皇族だったのに、こんなド田舎で苦しまなきゃいけないんだよ」と不満に思っていた節もあるんで、朝廷との対立は必然でもあった。
 朝廷と対立してしまうことになり、腹を決めた将門は関東周辺の国々を次々攻め落として勢力を拡大。終いには「新皇(新しい天皇)」を自称し始めたりもした。
 武士の先駆け。「弱きを助け、強きをくじく」性格は、民衆の信望を集めた。
◇エピソード
 古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続け、この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。
 そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に都市再開発として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣・早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで、将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが丸の内周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去し造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めたという事件である。
 結果、首塚はバブル景気後も残ることとなり、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。
 



桜田門
西の丸防備のための門、外側と内側の二重構造になっている。建設は寛永年間(1624-44)。

桜田門外の変
 安政7年(1860年)3月に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老 井伊直弼を暗殺した事件。 外桜田門と彦根藩邸の距離は600m。
安政5年(1858年)4月、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題と修好通商条約の締結という二つの課題に直面していた。
① 第13代将軍・徳川家定の後継をめぐって、南紀派(会津藩主・松平容保や高松藩主・松平頼胤らを中心とした一派)と一橋派(水戸前藩主・徳川斉昭や福井藩主・松平春嶽らを中心とした一派)が争った将軍継嗣問題。嘉永6年(1853年)に起きていた黒船来航など対外危機を慮った一橋派は、英明で知られた当時21歳の一橋慶喜を推挙していたが、それに対し南紀派は、家定の従弟で当時12歳の紀州藩主・徳川慶福を推し、結局慶福が養子と決められた。「時節柄、次期将軍は年長の人が望ましい」とした朝廷の意に反するものであった。
② 修好通商条約の締結については、攘夷派の反対論が勢いを増していたが、直弼は日米修好通商条約をはじめとする安政の五ヶ国条約の調印に踏み切った。
 
 孝明天皇も幕府の行いに対し憤慨、安政5年8月、幕政の刷新と大名の結束を説く『戊午の密勅』を水戸藩へ下した。直弼は、密勅が天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、反論者への徹底弾圧を決心した。幕政を批判する政治運動に関わった諸藩の藩士を捕らえていった。いわゆる安政の大獄である。最終的に安政の大獄へ関係して罪を得た者、または社会的に失脚、迫害された者は100名以上にのぼった。

 一方で、孝明天皇は、条約調印が切羽詰まった措置であったという直弼の弁明に理解を内々に示したため、幕府に批判的な一派は勢いを挫かれた。
 
 安政7年3月3日(1860年3月24日)の早朝、水戸浪士の一行は東海道品川宿の旅籠を出発した。一行は東海道(現在の国道15号)に沿って進み、愛宕神社(港区愛宕)で待ち合わせた上で、桜田門外へ向かった。
 午前9時頃、彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出た。彦根藩邸から桜田門まで三、四町(327から436メートル)、彦根藩の行列は総勢60人ばかりだった。屋敷の門を出た後、内堀通り沿いを進み、江戸城外の桜田門外の杵築藩邸の前に差し掛かり、そこで浪士たちの襲撃を受けた。
 襲撃により、藩主である直弼以外に8名が死亡し(即死者4名、重傷を負い後に死亡した者4名)、他に5名が重軽傷を負った。
影響
 井伊直弼の専制政策路線は、自身の死によって決定的に破綻。そればかりか、徳川御三家の水戸徳川家と、譜代大名筆頭の井伊家が反目、長年持続した江戸幕府の権威も大きく失墜し、文久期以降に尊王攘夷運動が激化する端緒となった。ここからわずか7年と7か月後の慶応3年(1867年)10月14日、第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が成され、同年の江戸開城により急転直下で成る明治維新への、直接的ではっきりした起点がこの桜田門外の変であった。

水戸藩・水戸徳川家のその後
  事変を見届けた水戸藩士・畑弥平は、直ちに水戸へ急ぎ、事の経緯を藩庁へ伝えた。そのため、事件翌日の3月4日には、国許で永蟄居中の前水戸藩主・斉昭の元へ、変の詳細が伝わった。水戸藩側では事態を知り驚愕、江戸の水戸藩邸では幕府へ「浪士らは脱藩者ゆえ大法に即し処置されたい、関係者は水戸藩でも探索し召捕るつもりである」旨を上申した。その後、脱藩関係者らは捕縛され、会津藩主松平容保の仲裁もあって水戸藩は事なきを得た。
 残された尊攘急進派の水戸藩士は、文久元年(1861年)から元治元年(1864年)にかけ坂下門外の変、天狗党の乱などの尊王攘夷運動を先駆けた。

その後、第2次長州征伐中に起きた第14代将軍・家茂の薨去に伴って、徳川慶喜は徳川宗家を継ぎ、ついで第15代将軍に就任した。また慶喜は慶応3年(1867年)10月14日大政奉還を表し、その後江戸開城によって江戸幕府の歴史に幕を閉じた。

親善都市提携
 桜田門外の変で敵対した両藩の城下町である水戸と彦根が和解して親善都市提携を結んだのは、事件発生から約109年後の1968年(昭和43年)10月29日であった。水戸市から彦根市へは偕楽園の梅、彦根市から水戸市へは彦根城堀の白鳥がそれぞれに贈られた。当時の彦根市長は、直弼の曾孫にあたる井伊家の当主で殿様市長として知られた井伊直愛だった。水戸市と彦根市を仲介したのは敦賀市だったが、敦賀は水戸天狗党が彦根藩士から処刑された土地だった。
 
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域学連携まちづくりワークショップ

2020-02-11 10:43:31 | 地域

第一回 域学連携まちづくりワークショップ、令和元年12月21日(土)9:30~14:00
参加者:地区住民26,茨城大学農学部「地域計画学研究室」9,阿見町生活環境課3 計38名
ねらい:
①高齢者の居場所づくり。
②暮らしている人々が地域に誇りを感じるまちづくり。(第二のふるさと)
③若い世代が流入するまちづくり。(循環型のまち)

■ 域学連携
  学生や教員が地域の人々と一緒に、地域の課題解決につながるような活動を行う「域学連携」地域づくり活動に対し、国(総務省、文部科学省)があとおしをしている。過去に実施した自治体は全体の約5割に達している。
■ ワークショップ
  ワークショップとは、地域の課題を解決するため、自分たちで地域の点検を行い、自由に意見を出し合いながら、話し合いを重ねて、地域づくりの構想などをまとめる手法をいう。 






地域のお宝さがし






グループに別れ、宝ものマップ作成




宝ものマップ発表
※ 次回は、将来構想マップ

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御殿場東山「東山つばきガーデン」

2020-02-02 21:42:17 | 閑話休題
2020,1.26(日)、東山つばきガーデン
御殿場東山は、由緒ある別荘地帯、御殿場市の景観重点整備地区になっている。
住所:静岡県御殿場市東山1082-107  TEL0550-83-6783
Open Garden:2月~4月 10時~日没
環境省主催平成27年度第10回「みどり香るまちづくり」企画コンテスト入賞、『癒やしの小径』として道路沿いに4種の薫り椿150本を植栽。この小径は、東山旧岸邸と秩父宮記念公園を結ぶ散歩道。


松岡別荘
外務大臣や外交官、政治家、満州鉄道総裁など歴任した松岡洋右の別荘、森林の中の庭園に約90種370本の椿が点在、一番の見頃は3月中旬から4月上旬、昨年春から、OpenGardenとして
一般に開放したとのこと。(入場料:管理協力費100円)


主人の松岡陽子氏は故松岡洋右の息子(四男、松岡志郎)の嫁、昨年、夫が亡くなり、一人で守っている。


外交官、松岡洋右、イタリア・ムッソリーニ


近現代史


別荘2階のお宝(松岡洋右氏の私物)
◇松岡 洋右(まつおか ようすけ)
 1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。満州鉄道総裁を務めた。日本主席全権として国際連盟を脱退。第2次近衛内閣では外務大臣に就任し、日独伊三国同盟や日ソ中立条約締結を推進。しかしドイツのソ連侵攻後は南進論が大勢を占める政府で、彼だけ北進論を主張し、第3次近衛内閣発足を機に事実上外相を解任された。
 敗戦後、A級戦犯として極東国際軍事裁判公判中に病死した。

生涯
(1)アメリカ留学
 1880年(明治13年)3月4日、山口県光市にて、廻船問屋の四男として生まれる。 洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから、留学のため渡米する。アメリカでは周囲の人々からキリスト教の影響を受け入信、洗礼を受けた。
アメリカでの生活は苦しく、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった。また、たびたび人種差別の被害にあった。この頃の体験が「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。
オレゴン大学法学部に入学、1900年(明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった。松岡はアメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいたが、これは終生変わらなかった。
(2)外務省時代
 帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台の明治法律学校(明治大学の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした。しかし帝国大学の授業内容を調べ、物足りなさを感じた洋右は、独学で外交官試験を目指すことを決意する。1904年(明治37年)に外交官及領事官試験に首席で合格し、外務省に入省する。
 外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海に赴任する。短期間のロシア、アメリカ勤務があるが、「これからの日本には大陸が大切だから」という思いがあり、中華民国勤務が永い。1921年(大正10年)、外務省を41歳で退官した。

(3)満鉄から代議士へ
 退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁となる(総裁は山本)。 1930年(昭和5年)、満鉄を退職する。
 2月の衆議院議員総選挙に郷里の山口2区から立候補して初当選する。議会内では「対米英との協調と対支那の内政不干渉」を方針とする幣原外交を厳しく批判し、国民から喝采を浴びることとなる。
 ただし、当時の松岡が実際に望んだ対中外交は、あくまでも経済的なアプローチを基本とするものであった。そのため、1931年(昭和6年)9月19日、前日に起きた柳条湖事件を報道する新聞を読んだ松岡は、「砲火剣光の下に外交はない、東亜の大局を繋ぐ力もない。休ぬるかな」と自らの対中外交方針が破綻したことに落胆している。そして10月15日に内大臣の牧野伸顕に対して「今日は私を捨てて協力内閣に依るの外なし」と語るなど、満州事変勃発当初は、事態の収束を図るために民政党との協力内閣構想を積極的に主張した。しかし協力内閣構想は、民政党の若槻内閣の拒否により挫折する。その後は対外方針を一転させ、満州国の早期承認を主張するようになった。

(4)ジュネーブ総会派遣・連盟脱退
 1932年(昭和7年)、国際連盟はリットン調査団を満州に派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だった。
 報告書は、「満州の自治・日本権益の有効性」を認めながらも結果として「満州を国際管理下に置く事」を提案し、満州を満州国として認めない内容だった。
 10月、松岡は連盟総会に日本首席全権として派遣される。総会は日本に対して厳しい雰囲気の中、開催される。松岡は12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を総会で行う。 松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一行の満州視察」という満鉄広報課の作成した映画が上映され、各国代表を含め約600人程が観覧した。併合した朝鮮や台湾と同じく多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満州開発姿勢に、日本反対の急先鋒であったチェコスロバキア代表ベネシュも絶賛と共に日本の対外宣伝の不足を感じ、松岡にその感想を伝えるほどであった。
 しかし、1933年(昭和8年)2月21日、日本政府はリットン報告書が連盟総会で採択された場合は代表を引き揚げることを決定した。2月24日、軍縮分館で行われた連盟総会で報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で可決・採択された。松岡はあらかじめ準備していた宣言書を朗読して総会から退場した。
 
 その後、ジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニ首相と会見している。ロンドンでは、満州における日本の行動に抗議する英国市民に遭遇し、松岡は「日本は賊の国だ」と罵られた。

(5)議員辞職・再び満鉄へ
 帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。言論界でも、清沢洌など一部の識者を除けば、松岡の総会でのパフォーマンスを支持する声が大だった。もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。
 帰国後は「国民精神作興、昭和維新」などを唱え、1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職した。それから1年間にわたって全国遊説を行い、政党解消連盟の会員は200万人を数えたという。このころからファシズム的な論調を展開し、「ローマ進軍ならぬ東京進軍を」などと唱えた。特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年(昭和14年)2月まで)。
1938年(昭和13年)3月のオトポール事件では樋口季一郎と協力してユダヤ人難民を保護している。

(6)外務大臣就任
 1940年(昭和15年)、近衛文麿が、外務大臣として松岡を指名した。松岡は軍部に人気があり、また彼の強い性格が軍部を押さえるであろうという近衛の目算があった。
 20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。また松岡は以前から外交官批判を繰り広げており、就任直後には公の場で外交官を罵倒した。

 当時の大きな外交問題は、泥沼となっていた日中戦争、険悪となっていた日米関係、そして陸軍が主張していたドイツ・イタリアとの三国同盟案であった。松岡は太平洋を挟んだ二大国が固く手を握って、世界の平和を確立すべきと唱えていた。

(7)四国同盟構想とその失敗
 松岡は世界を、それぞれ「指導国家」が指導する4つのブロック構造(西欧、東亜、アメリカ、ロシア)に分けるべきと考えており、日本・中国・満州国を中核とする東亜ブロック、つまり大東亜共栄圏の完成を目指すことを唱えていた。
 松岡は世界各国がブロックごとに分けられることでナショナリズムを超越し、やがて世界国家に至ると考えていた。松岡はこの構想を実現させるためには、各ブロックを形成する他の指導国家と協調する必要があると考えていた。
 就任当初から日本・ドイツ・イタリアによる三国同盟を唱える陸軍の使者が松岡の元を訪れ、三国同盟を推進するよう働きかけていた。陸軍と「議論」を行う中で、次第に三国同盟に傾斜していった。 当時ヨーロッパはドイツの軍事力に席巻されており、松岡は遠からず西欧ブロックがドイツの指導の下形成されるであろうと考え、1940年(昭和15年)の8月頃から三国同盟案を検討するようになった。
  一方で松岡は、伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えており、ロシアブロックの指導国家ソビエト連邦にパキスタン・インドへの進出を認めることで、その東進を防げると考えていた。松岡は「ドイツが日ソの仲介を買って出れば、日ソ関係を構築できる」と思った。
 8月13日、松岡はドイツと会談し、三国同盟への交渉を本格的に開始した。ドイツの外相もまたソ連を加えた日独伊ソ四カ国同盟を構想。
 松岡は日独の提携はアメリカに脅威を与え、西欧や東亜への介入を防ぐことができる。アメリカの世論は沸騰するだろうが、日本の真意がわかればアメリカ人の心証は一転するであろうと極めて楽観的に、三国同盟成立に邁進する。
 日独伊三国軍事同盟は1940年(昭和15年)9月27日に成立した。しかし、その後の独ソ関係は急速に悪化し、その情報が日本にも伝えられ、四国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに期待することもむずかしくなってしまった。これはソビエトが四国連合参加の条件として、多数の領土要求をドイツに出してドイツの怒りを買ったためである。

 この状況の急変に直面し、松岡は自ら赴いて外交的駆け引きをすることを決意し、1941年(昭和16年)3月、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、ヒトラーとムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受け、両国との親睦を深めた。この際、ドイツから、対イギリスへの軍事的圧力の確約を迫られるが、「私は日本の指導者ではないので確約はできない。帰国後貴国の希望を討議する」と巧みにかわしている。往路と帰路の2度モスクワに立ち寄り、帰路の4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげた。シベリア鉄道で帰京する際には、きわめて異例なことに首相ヨシフ・スターリン自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面があった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。
 独ソ開戦とともに三国同盟の目的が有名無実になったとして日独伊三国同盟の即時破棄を主張する閣僚もいたが、松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で主張し、南部仏印進駐に関しては閣内で強硬に反対、いわゆる北進論を主張する。
  しかし政府首脳や世論は北進論に関しては全体的に消極的で、独ソ戦によってソビエトの脅威が消滅したことにより、南方に戦力を集中して進出すべきとする南進論が優勢になった。この頃の松岡はそのあまりの独断専行ぶりから、かつては協力関係にあった陸軍とも対立するようになっており、また閣内でも平沼騏一郎ら反ドイツ的見解の閣僚と対立、孤立を深めていた。また日米交渉が継続不可能であるという見解を示すようになった。ついには昭和天皇までもが松岡の解任を主張するようになり、近衛文麿首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した上で第3次近衛内閣を発足させた。この事実上の松岡更迭によって南部仏印進駐は実行されることとなり、アメリカ・イギリスとの対立はよりいっそう深まっていくことになる。

(8)外相離任後
 1941年(昭和16年)12月8日、日米開戦のニュースを聞いて「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」、「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と無念の思いを周囲に漏らし号泣したという。
 しかし、開戦二日目に徳富蘇峰に送った書簡には、緒戦の勝利に興奮し、多大な戦果に「欣喜雀躍」と喜んでいる。また同じ書簡で松岡は、開戦に至った理由として、アメリカ人をよく理解出来なかった日本政府の外交上の失敗であることを指摘し、アメリカをよく知っている自分の外交が、第二次近衛内閣に理解されず、失脚したことへの無念さを訴えている。その一方で開戦したからにはその外交の失敗を反省し、日英米の国交処理をいつかはしなければならない、と蘇峰に書き送っている。

(9)A級戦犯被告
 敗戦後はA級戦犯容疑者として、GHQ命令により逮捕される。連盟脱退、三国同盟の主導、対ソビエト戦争の主張などから死刑判決は免れないとの予想の中、巣鴨プリズンに向かった。しかし、結核悪化のため極東国際軍事裁判公判法廷には1度のみ出席となった。
 1946年(昭和21年)6月27日、病死。満66歳没。墓所は青山霊園。
 辞世の句は「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)」。

(10)逸話
満州国と松岡
 満州事変以降よく使われたスローガンである「満蒙は日本の生命線」という標語は、1931年1月(満州事変が始まるのはこの年9月)の第59回帝国議会で、野党政友会の議員であった松岡が、当時政権にあった濱口内閣の幣原喜重郎外務大臣による協調外交を批判する演説で利用したのが最初。大ヒットして、龍角散のキャッチコピーに引用されたりもした。「咽喉は身体の生命線、咳や痰には龍角散」がそうである。

 また、アメリカでの経験から貧困層の秀才をスパイに育て上げることを考え、アイヌ人の天才少年シクルシィ氏を幼少時から援助し、5回の飛び級を経て12歳で釧路中学を卒業させ、英語以外にロシア語、ドイツ語、ユダヤ語、フランス語、イスパニア語、北京語、華南語、朝鮮語、ブリヤーク語、タガログ語を現地レベルで学ばせ密偵として各国に派遣させ、情報を収集した。

 満鉄総裁時代のオトポール事件ではユダヤ人難民救援用の列車を出動させるなど積極的に動いており、ナチスの不興を買っている。また、1940年(昭和15年)12月31日には、在日ユダヤ人の実業家らとの会合の中で、「人間ヒトラーとの提携が、ただちに日本で反ユダヤ政策を実施するということでは無い」と約束している。また、「これは私個人の見解では無く、日本の見解である」とまで述べており、反ユダヤ主義者ではなかった。

ヒグチ・ルート
「樋口季一郎#オトポール事件」
 満州鉄道総裁だった1938年にソ連と満州の国境に押し寄せたユダヤ人を樋口季一郎から直接依頼を受け、ユダヤ難民を後にヒグチ・ルートと呼ばれる満鉄の特別列車で上海まで特別列車を出して5000人以上を救っている。

昭和天皇からの評価
 昭和天皇は松岡を徹底して嫌っていた。『昭和天皇独白録』にも「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」、「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」、「5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」というような非常に厳しい言葉を残している。

北進論について
 松岡の北進論は相当な不評であった。松岡が大本営政府連絡会議で北進論を語った際、当時の陸軍大臣で南進論者の東条英機は、松岡は気が狂ったのではないかと思ったという。また、松岡が昭和天皇に単独拝啓して北進論を上奏した際には、天皇は「松岡のやり方では果たして統帥部と政府と一致するかどうか。国力から考えて妥当であるかどうか。」と懸念した。

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