さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

ユダヤ教のバル・ミツワー(成人式)

2010-03-07 09:32:18 | 海外旅行
□ユダヤ教
 『タナハ』 とよぶ書を聖典とする。これはキリスト教の『旧約聖書』と同じ書物である。ただし、キリスト教とは書物の配列が異なる。
 ユダヤ教はキリスト教やイスラム教と違い、信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視する。「信じるものは救われる」などという講義をするラビはいない。そのため改宗にも時間がかかり、単なる入信とは大きく異なる。 ユダヤ教徒であることとユダヤ人であることはほぼ同義に近く、血縁よりも教徒としての行動が重要視されることも多い。しかし、神の下僕となり、神との契約を守る非ユダヤ人がユダヤ教徒になることには条件がいる。その場合、ユダヤ人が神の祭司であるのに対し、非ユダヤ人は労役に服するという差別性があり、キリスト教のように「イエスを信じる者が平等に救いを得ることができる」とはしない。ここにもユダヤ教の普遍宗教的でなく民族宗教的な側面がある。
 しかし、形式的に考えれば初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人だったのであり、「ユダヤ人キリスト教徒」という矛盾を含んだ呼称も成立する。世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうるのであり、ユダヤ人は他宗教に改宗することによってもはや狭い意味での「ユダヤ人」ではなくなってしまう。
 このように、内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない。
□ ユダヤ教の教え・信仰
 ユダヤ教徒の中にも、ランクがあり、ラビと呼ばれる人は、国家公務員として、国から給料をもらいながら、タルムードと呼ばれる教典に従って行動している。タルムードは2世紀頃からユダヤ人の間で幾たびも議論の末に改良を重ねられてきた生活および思想の基礎である。
①教育
 ユダヤ教において最も特徴のある分野は教育でユダヤ教徒は教育こそが身を守る手段と考え、国を守るには兵隊を生み出すよりも子供によい教育を受けさせるべきとされている。そのため一般大衆の殆どが文盲だった紀元前からユダヤ人のコミュニティでは授業料が無料の公立学校が存在していた。平均的なユダヤ教徒は非常に教育熱心で、子供をいい学校に行かせるためには借金をすることも当然と考える。家庭では特に父親の存在が重要で、先導して子供に勉強、タルムードなどを教え、子供を立派なユダヤ人に育てたものは天国にいけると信じられている。また子供が13歳に達するとバル・ミツワー(成人式)の儀式が行われ完全に大人と同様と扱われる。
② 死生観
 ユダヤ教は死を現実的なものと捉えており、一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。
③ 労働
 労働は神の行った行為の1つであるため、神聖な行為と考えられている。そして、安息日と呼ばれる休日を週1回は必ず行うべきであり、安息日の間は労働はしてはならず、機械に触れてもいけない。(金曜日の日没から土曜日の日没まで。)自分自身を見つめ、自分と対話したり、家族と対話したりする。
④割礼
 生後8日目、性器の5-6㎜をカミソリで切る。割礼式は、神との契約書
□ユダヤ教の成立
 紀元前1280年頃、モーセが、社会的下層の人々を中心とした集団をエジプトから脱出させ(出エジプト)、シナイ山で神ヤハウェと契約を結ぶ(十戒、律法)。カナンに定着後の約200年間は、12部族からなるイスラエル民族が繁栄し、王は神ヤハウェとして人間の王を立てずに、平等な社会を形成した。。
 紀元前1020年頃イスラエル王国が成立し、約400年間は外部からの防衛上必要悪として王を立てるが、平等な関係が崩壊し、支配・被支配の構造が作られ、預言者による王への批判が起こる。ダビデと子のソロモンの時代にあたる。その後ユダ王国が成立し、南北に分裂した。
 紀元前587年、ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされ、政治・宗教のエリート層の全員が捕囚され、王国もなく、神殿もない状況に置かれた。この中で今までのイスラエル民族の歩みを根本的から捉え直され、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選び、大胆な宗教変更・改革が行われた。「圧倒的な政治・経済を誇る異教の地」の下にも拘わらずそれに飲み込まれずに、神ヤハウェの再理解、神との再度の関係修復を実現し、イスラエル民族のアイデンティティを確立したのである。旧約聖書の天地創造物語はこの時代に著述された。
 これが「神ヤハウェが、この世界を創造した神であり、唯一神である」と理解し直されたユダヤ教である。この時期の代表的な宗教家は無名であり、また、創世記の天地創造の物語も、この時代に、祭司記者といわれるグループによって著述された。   
 その後(紀元前539年)、この捕囚されていたユダ王国の人々がユダヤに帰還した。しかし、政治運動であるユダヤ王朝の復興は禁止されたままであったため断念し、捕囚期の宗教改革を受けたヤハウェ宗教の下で「エルサレム神殿の儀礼」と「神ヤハウェの教えである律法の遵守」を2本の柱とするユダヤ教団を発展させた。

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