2021.3.27、「塙城跡」見学ハイキング、ガイド:塙城保存会田崎会長、参加者19名
塙城址は、城跡の原型遺存状態が素晴らしく、阿見町指定史蹟になっている。外敵の侵入を防ぐため、二段構え(本城域・北の廓)の構築となっており、謎の城・特異な城と称されている。
清明川左岸の標高約20Mの台地に構築された。言い伝えによれば、城主は館野氏であったとされている。小字名は「タテ」である。
本廓(本丸)跡にて
戦国期、塙城は江戸崎城(土岐氏)の勢力下であった。周辺勢力には、牛久城(岡見氏)、小田城(小田氏)があり塙城は本拠である江戸崎城を守る上での要衝であった。戦国末期には、佐竹氏の南進に伴い、小田氏が佐竹氏の傘下になったこともあり緊張が続いた。
その後、豊臣秀吉による関東侵攻の時勢を迎え、土岐氏は北条方に組みし(佐竹氏は秀吉方に)、小田原の陣で、北条が滅び、秀吉が天下統一を果すと同時に、塙城も歴史の表舞台から姿を消すことになった。
塙城址は、城跡の原型遺存状態が素晴らしく、阿見町指定史蹟になっている。外敵の侵入を防ぐため、二段構え(本城域・北の廓)の構築となっており、謎の城・特異な城と称されている。
清明川左岸の標高約20Mの台地に構築された。言い伝えによれば、城主は館野氏であったとされている。小字名は「タテ」である。
本廓(本丸)跡にて
戦国期、塙城は江戸崎城(土岐氏)の勢力下であった。周辺勢力には、牛久城(岡見氏)、小田城(小田氏)があり塙城は本拠である江戸崎城を守る上での要衝であった。戦国末期には、佐竹氏の南進に伴い、小田氏が佐竹氏の傘下になったこともあり緊張が続いた。
その後、豊臣秀吉による関東侵攻の時勢を迎え、土岐氏は北条方に組みし(佐竹氏は秀吉方に)、小田原の陣で、北条が滅び、秀吉が天下統一を果すと同時に、塙城も歴史の表舞台から姿を消すことになった。