さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

稲葉ゼミ旅行奈良 一日目

2015-03-21 20:57:15 | 稲葉ゼミ
2014.11.26~27、古都奈良を歩く

□唐招提寺
奈良時代、聖武天皇は仏教で国を治めるべく、中国から、「鑑真」を招請、来日6年後、759年、新田部親王の邸宅を賜り研修道場を開設したことに始まる。律宗総本山。世界遺産。
金堂・・・南大門を入ると正面に見える建物、国宝。平成21年大修理。




講堂・・・正面9間、(16.2M)入母屋造、本瓦葺き。平城京の宮殿建築の名残をとどめている。


□薬師寺
680年、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気回復を祈り建てたのが始まり。その7年後に完成を見ずに崩御、翌年、遺志を継いだ持統天皇が、藤原京に七堂伽藍を完成した。718年、平城遷都が行われた際、現在地に移転した。創建時の建物は、東塔のみとなった。(東塔は、現在改修中)




金堂・・・1528年に焼失、昭和51年に再建した。正面7間、側面4間、二重の入母屋造。
道内には、ご本尊の薬師如来。右に日光菩薩、左は月光菩薩。


大講堂・・・平成15年に再建、白鳳様式。朱色と白壁のコントラストが鮮やか。


西塔・・・昭和56年に再建、450年ぶりに両塔が揃った。


玄奘三蔵院・・・『西遊記』で知られる三蔵法師の遺徳を讃えて平成3年の建立された。平山郁夫画伯の壮大なシルクロードの壁画がある。


□坐禅と遍路から観えた釈尊の教えと釈尊が現代のわれわれに問いかけること
・・・四国八十八ヶ所の通し遍路を2回達成した山内庸行さん草稿より、・・・・・


序 私は、中学時代に“人は何の為に生きるのか?”、“生きる目的など在るのか?”という疑問に出くわしてしまいました。

高校時代から何故か坐禅に惹かれ、大学の専門課程で臨済宗妙心寺派末寺の祥龍寺に住まい、その縁で入ったクラブ活動を通じて、坐禅との付き合いが始まり、今日に至っています。この疑問は、私にとって、人生における卒論テーマのようなものです 

草稿の視点 

1.釈尊は一体何をわれわれに説かれようとされているのか? またどのようしてその教えを得られたのか? そもそもそれは何故当時のインドの人の支持を得ることが出来たのか?
2.釈尊は、現代のわれわれに何を問いかけているのか?
3.坐禅と遍路の体験との関わり?


1-1 釈尊は一体何をわれわれに説かれようとされているのか?遍路途中の寺は、例外なく現世利益を説いている。私が学生時代の二年ほどを過ごした祥龍寺でも、正月には、国家安泰を祈っていた。

しかし 国を捨て、家族や財産を捨て出家された釈尊が、現世利益や護国の道を求められた筈もなく、求められたのは、生きるとは何か?(己事究明)であろう。

その結論が『三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)、“諸法空相・諸法実相”“色即是空・空即是色”、無常、無我、空、無』等の教えであり、日常の言葉で言うと、釈尊は、“生命の真実”と“自分の真実”の教えを説かれた:

① “生命の真実”とは ⇒(“諸行無常・諸法無我”、“諸法空相・諸法実相”、“色即是空・空即是色”)
・ひと続きの大きな生命が只生命を生きているだけ、自分なんて在るようでどこにも無く、無いようで仮に在るだけと(イ)、自分と言う意識は、“顛倒夢想”(錯覚)とまで言われた。

・例えるならば、自分は、手桶に汲まれた水のようなもので、手桶に汲んだから水が生じたのではなく、自然界の水が、手桶に汲みとられただけ、また手桶の水を撒いたら水が無くなるのではなく、あくまで自然界に戻るだけ。生命と自分の関係は、自然界の水と手桶の水のようなもの。

②“自分の真実”とは ⇒(“涅槃寂静”、“色是色・空是空”)
・生命が生命しているだけで自分など無い(イ)と聞くだけでわれわれ
には青天の霹靂なのに、更に凄いのは、自分は、そんなひと続きの
大きな生命を、当の本人として、出逢う人・モノ・コト全てを自分の人
生の中身として、他人との比較の出来ない自分だけの世界を生きてい
る。自分が生きているから世界は在る。(ロ)』と、と言いきら
れ、自分の存在を100%完全に肯定された。つまり(イ)で錯覚とし
て否定されたのは、固定的なカチッとした自分、自他の分かれた世界と
いう意識であった。

・例えるならば、春と一輪の花の関係。春という環境が整わないと花は
咲けない、しかし春なんてどこを探してもどこにもなく、在るのは一輪
の花やそよ風だけ。ビッグバンと地球の誕生で生命が生れない限り自分
は存在し得ない、しかし自分が今ここで生きて初めて生命は、具体的に
その姿を表す事が出来る。

  ・『確かに全ては変化し流れているが、この一瞬以外には、生きる真実は無く、この一瞬に於いて全てが終わり、全てが始まるマッサラな今を生きている(ハ)。』と日ごろ、この今を生きていると信じているが、実際には、過去にひきずられ明日を心配しながら生きているだけの我々の事実を見せつけられた。

③縁起と言うこと

・教えの根本として、この自分も含め宇宙の存在は、全て、あくまで宇宙や生命の変化の流れの中にたまたま生じる渦のようなものであるとの縁起を説かれた。

[水素+酸素=水]の式を借りれば、説かれた縁起は、次のような教えと言える:

水なんて、ある意味どこにも存在しない。在るのは、水素と酸素だけ。しかし同時に水素とも酸素とも違う水が確かに存在している。しかし水は在るにはあるが、水素と酸素の結合が終われば無くなる、仮に在る存在!公式の内の水素+酸素の部分が、縁起の縁、水(自分)なんてどこを探しても無い、あるのは水素と酸素つまり(縁)だけ、それが“生命の真実”。

そしてその結果確かに出来た水(自分)が、縁起の起つまり 宇宙広しと言えども、たった一つだけの水(自分)がここに在る、これが“自分の真実”。

・余談ですが、私は、子供達に、“君たちは水で、さしずめ私と妻そしてご先祖の遺伝子が、水素と酸素。

君達は、私、妻、ご先祖の遺伝子以外の何モノでも無いのだ!”と説明しています。割りと効果的です。
1-2その教えは、どのようにして得られたのか?
釈尊は、この教えを、もちろん思い付きからではなく、概念と思考の積み上げである哲学や神の啓示でもなく、あくまで坐禅によって生じた[“見る・聞くそして思うの前に、目に・耳に入る”がある]との極めて単純な気付きをきっかけに得られた。

釈尊の教えとは、その気付きをきっかけに、坐禅によって生じた色々な気付きの数々の積み重ねを“演繹法的に整理し、帰納法的に活用”された。つまり“体験知”:

① “演繹法的に整理”したとは?

・6年間厳しい修業を続けたが、疑問は何一つ解消できなかった。そこで修業を諦め、疲れ果て失意の中たまたま出会った若い女性から乳粥の接待を受け、これを食しブッダガヤーの菩提樹の下で心静かに坐禅したところ、8日目の早朝、明けの明星がまるで自分が輝いているように感じ、疑問が一挙に融けた。

・考えると どうも 修業中は、何か今とは違う自分になりたいとの思いが頭を占めていたが、そんな思いも全て諦め、7日間只静かに坐禅していると、目の前に川が流れ、空には雲が生滅し、風が吹き、日が照り、雨が降り、色々な鳥や虫が鳴いているのが、確かに五官に伝わって来ていた。

今まで、自分が景色を見・自分が鳥の声を聞いているとしか理解してこなかったが、確かにそう言う側面はあるにはあるが、“自分が見る、聞く”以前に、“ただ目に入る、ただ耳に入る”という事実がある!そう言えば、寝ていても起きていても、修行中も修行に絶望した今も、心臓や呼吸などの身心の全てが働いてくれている。

どうも自分が生きているというのは、自分の頭がそう思っているだけで、本当はあくまで生命がただ生命を生きているだけではないのか!
⇒(イ)の気付きが、知らないうちに、何回と無く坐禅中に起きていたのではないでしょうか。

・また 坐禅していると色々な思いが勝手に浮かんでは消えていった、どうも“思い”すら、自分が思うと思う前に、頭に、勝手に浮かんでくるようだ。

静かに目や耳に入ってくることを只感じていると、思いが静まり、それにつれて、自と他の境目が、余り気にならなくなり、消えるみたいな“ひと続きの大きな生命”を生きていると実感していたようだ。

“他と区別された自分”というのは、頭が勝手に描いた概念に過ぎないようだ、坐禅中のあの実感が、真実の自分なのではないのか!

⇒坐禅中のこれらの気付きの積み重ねが、8日の早朝に、明けの明星を見て自分が光っていると感じるまでに深まり、(イ)の気付きにつながり、そしてまた気付きとは、実感であるが故に、二つと同じ実感はこの世に存在し得ないところから、そのひと続きの大きな生命を、当の本人として、出逢う処は、全て自分の人生の中身として生きているという気付きが、

更にまた実感である限りたった一回きりのものであり、この瞬間に終わると同時に始まっているマッサラな今を生きていると言わざるを得ないと言う気付きが一挙に産れ、それらの気付きを、(イ)(ロ)(ハ)と整理され、それらを演繹法的に整理され、三法印など上述の教えが、体験知として生まれたのではないでしょうか。

・また静かに坐禅していて、目にそして耳に入った色々なことを振りかえると、景色が目に入るのは、景色があるからであり、鳥の声が耳に入るのは鳥がなくからである。風は吹き、雲は生まれているが、これとて、大気や大空の言わば働きの結果に過ぎない。この自分も、両親や日々の食事の言わば結果・・。

⇒坐禅から得たこれらの気付きを演繹法的に整理され縁起と言う体験知を提示されたのだと思います。

確かにバラモン教の輪廻転生と類似性はあるものの、“生命が只生命しているだけで、自分は在るようでどこにも無く、無いようで仮に在るだけとの気付き”は、バラモン教の説く永遠不滅の我(アートマン)の考えとは、全く相いれないことから、縁起という考えを新たに提示されたと想像します。

⇒坐禅からの深い気付きが、ひと続きの大きな生命が生きているだけ、しかし同時に自分は比較や善し悪しを超えて在ることの気付きを生み、そう気付いてみると、なぁ~んだ、気付かなくても、人間とはもともとが、そんな存在だったのだ!と気付かれた釈尊は、“悉有仏性”を体験知として提示されたのではないでしょうか。

それでも生きている限り、比較や善し悪しの思いは、浮かんできます、そこで、坐禅の気付きを日常生活に出来るだけ守れるように、後述の四聖諦や戒などを示されたのだと思います。

⇒三法印などの体験知と縁起と言う2つの体験知が、またこの2つの体験知と坐禅という行が、相乗的に相互に深め合って行ったのではないかと想像しています。
② “帰納法的に活用”とは?

 釈尊は、坐禅の気付きを演繹法的に整理して得られた体験知を、次のように帰納法的に活用された:

1)苦集滅道(四聖諦)―“苦の発生”と“苦の消滅”の2つのメカニズムの提示

・苦集:イ・ロ・ハの真実に気付かずに、頭が描く兼ね合いと自他に分かれた概念に執り付かれていることつまり“集”が、“苦”つまり生き辛さの原因であるとの苦の発生のメカニズムの提示

・滅道:イ・ロ・ハの真実に気付き、頭が描く自他に分かれた概念を手放すつまり“滅”以外に、苦の解決の道は無いとの苦の消滅(解脱)のメカニズム この滅の考えは、即ち恨みや欲望は、追
求すればするほど充足されないとの凡人では思いつかない逆転の発想とも言える。

2)殺すな!盗むな!などの五戒や布施・持戒などの六波羅蜜など生きる規範としての“戒律”の提示

“戒律”は、極めて禁欲的なものとの心証があるが、事実は坐禅と体験知との好循環が生れると、その度合いに応じて自ずと心の内部から出て来るものである。たとえば五戒は:

・殺さない!⇒食物連鎖とは、殺し合うことが支え合うということであり、われわれの生命は、全て他の動植物の生命を殺すことでしか成り立たない。言わば他の生命のお陰で自分は、支えられている。全ては、全ての存在は、ひと続きの大きな生命を生きていると気づけば、自ずと殺生し難くなる。

・盗まない!⇒昔会社に入ってから東京のある坐禅会で“今の教育は盗人教育”と言う言葉を聞きました。

ひと続きの大きな生命の観点から言えば、確かに 自他を分けて、自分だけの能力向上を図る今の教育は、言わば盗人の養成教育のようなものと言える。こう気付くとモノを盗むどころではなくなる。

・酒を呑まない!⇒坐禅儀は、野の虎、水を得た龍のように坐れと、眠ることと考えごとを厳禁している。これは眠気や考えで,六根を曇らせては、坐禅にならないとの注意と理解できる、坐禅の心で日常生活を送る為には、眠気や考えごとは勿論飲酒で六根を曇らすわけにはいかない。

等々 戒律が、文字通りの意味での戒めでもあることも間違いないが、単に堅苦しい倫理基準を示そうとしたものではなく、あくまで坐禅の気付きの結論・エッセンスを日常語で表現してものである。

釈尊は、坐禅の気付きから得た自らの体験知のエッセンスを戒として示すことで、坐禅などに関心の無い人には、黙って実践さえすれば釈尊の追体験が出来る方法として、そして坐禅に関心の有る人には、日常生活においても、坐禅の気付きを維持する為の方法として“戒律”を提示された。
1-3 何故当時の一般のインドの人の支持を得ることが出来たのか?
① 思い付きや言葉で構築した哲学や不思議な神秘体験では無く坐禅の体験を、平易な言葉で説かれた。

釈尊の教えは、全て坐禅などの気付きから導かれた体験知であり、言葉の世界を超えている。従って、それを言葉で表現すると、例えば“生命の真実・自分の真実”とか“三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)”とか“諸法空相・諸法実相”とか“色即是空・空即是色”となり、何か真実が2つ・3つと複数あるように聞こえるが、そうではなく、あくまで自分が生きている一つの真実を示したものであり、本当は無とか、空とか、一語で言いたいところだが、何も無いの無とか空と誤解されてもいけないので、言葉で説明するとどうしても、複数のしかも相互に矛盾した言葉の羅列となり、人間の頭には大変分かり難くいものとならざるを得ない。


そこで 釈尊は、教えを、一般のインドの人に説かれる時には、そんな難解な言葉を使わずに、体験談を、日常の平易な言葉で教えられたのではではないか。

何故ならばそうでない限り、釈尊の教えが、多くの当時のインドの一般の人々に受け入れられたとはとても信じられない。

釈尊は、こんな風に説法されたのでは:

・たとえば畑で働いているお百姓さんに出会った時⇒みなさん、お疲れ様、ところで皆さんは、当たり前のように日ごろ自分は・自分はと、常に自分を他と切り離して考えておられると思います。一度畑の大根を見て下さい。大地の泥に埋まり、栄養を貰い、太陽に照らされ、雨の恵みを受けて育っています!

畑から抜いてしまった大根は生きた大根と言えるでしょうか!大根は、泥や泥の中の栄養や水そして太陽や雨や大空などと一体であって初めて生きた大根なのではないですか。

言葉で表現するとまるで大根というものが単独で存在しているように思えますが、それは言葉が創りだした幻想に過ぎないのです。自分と他人の関係も同じなのです。

ところで一度大根を齧ってみて下さい・・。今“美味い!”と言われましたね。その美味さと大根と自分、この3つを別々にして美味さは成り立つでしょうか?今のあなたは存在するでしょうか?全ては、ひと続きのものなのです。生きているとはそういうことなのです。

概念や言葉でとらえてしまうと、分離されてしまい、そこには生きたナマの人生は在りません!

生きることに満足感が伴わないとすれば、それは社会だけのセイではありません!概念でとらえた自他分離と比較の世界を本当の世界と思い込み、他と一体として在る自分に気付いていない、つまり自分が自分になっていないからなのです! 

・たとえば商店で働いている人と出会った時⇒みなさん、ご家族のために毎日商売に精を出しておられますね、働くことは本当に大変なことですね。しかし、実はそこに不幸への落とし穴もあるのです。

振り返ってみて下さい。一日に何回となくお茶を呑まれると思いますが、今まで本当にお茶を呑んだことがありましたか? お茶を呑みながら、いつも商売や家族の明日を心配し・過去を考えておられませんでしたか!

生きる為には止む得ないことです。しかし、明日も過去も全て頭の描く世界なのです。生きる真実はこの今にしかありません。

生きていることに満足感が伴わないとすれば、それは忙しさや商売の大変さだけが原因ではないのです!頭が描く明日や昨日が事実あるように思いこんで、今がマッサラな今になっていない、つまり今が今になっていないからなのです!

・そして釈尊は、いつも、話しの最後には、いつもこう付け加えられたと想像します。

でもみなさん!安心して下さい!みなさんが、気付かなくとも、生まれてこのかた、いつでもひと続きの大きな生命を、マッサラな今、生きているのです!これらのことを法と名付けてみましょう。法に気付かずに、頭が描くままに、我を張ったり、過去や未来にしばられたりするから苦しみが生れています。

どうか頭の思いのありのままではなく、生命のありのままに自分を生きて下さい!釈尊が死ぬ前に遺された自帰依・法帰依(自燈明・法燈明)も、こんな風に生前は説かれたのでは無いでしょうか!

・インド人もビックリではありませんが、このくらいの話なら、農民でも商売のことしか頭に無い商人でも、“生命の真実”とか“自分の真実”とか“縁起”とか聞かなくても、ましてや三法印や諸法空相・諸法実相などの専門語や唯識や中論などを理解できなくても、自分の真実が良く分かったのではないかと想像します!

②公案を解いたり、厳しい修行を求めることなく、釈尊が、勧められた坐禅は、シンプルであった。

・釈尊の坐禅の勧めは、次のような感じでは、無かったでしょうか
生命のありのままに生きて下さいと言いましたが、それはそんなに難しいことではありません!

言葉以前の世界で生きていることに気付くだけで良いのです!それも難しくありません!

“背筋を正して、体の力は一切抜いて、ゆったり・どっしりと”、“ごく普通の呼吸”を心がけて、但しこれらの心がけも全て忘れて、只坐ってみて下さい、

そしたら自分が見る・聞くの前に、目に・耳に入るということが、そして自分が思っていると信じていた思いが、実は勝手に頭に浮かんで来るということに、つまり、生命がただ働いているだけとしか言いようがない自分がそこに現れているのです。

概念が分断した世界が薄れて、全てのことが自分と繋がっていて隔てが無い、全てのことは自分の中身であり、今・今と時間は在るとの実感にまで深まるかも知れません。比較を司るあなたの頭は戸惑うか知れませんが、坐禅中のこの実感こそ、あなたの実像なのです。

他人とは共有できない、言わばあなただけの世界、出逢う処は全てあなたの人生の中身、一瞬の今だけが在るとの実感これがあなたの実像なのです。

あなたは、その時、 “生きた大根”のように、“今のお茶を今呑む”ように、生命のままに在るのです!

これなら仏教用語抜きでも、簡単に、坐禅を通じて、釈尊の追体験ができたのではないでしょうか!また 、生きた大根・今のお茶を今呑むことの体験知が、生れてくれば、五戒や六波羅蜜などの戒律は、ごく素直に受け入れられたのではないでしょうか。

・ただ釈尊は、坐禅の心得として、いつもこう付け加えることをお忘れにはならなかったとも想像します:

◎目に・耳に入ると言っても、決して眠ったりしたり、また逆に考え事をしたりして、五官を曇らせては、決してなりません! 五官は、常にその働きのままに、イキイキさせておいて下さい!

◎ ただし、五官を曇らせないと言っても、それを作為的に求めてはいけません。いついかなる時もあなたの意思や状態と無関係に、五官はイキイキと働いてくれているのですから。真実の自分は、あなたの作為が止んだ時、自然に観えてくるものです。
                      
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稲葉ゼミ旅行奈良 二日目

2015-03-21 20:56:25 | 稲葉ゼミ
二日目の訪問先:東大寺、白毫寺、新薬師寺、奈良公園


東大寺 南大門



金堂(大仏殿)

□ 東大寺の歴史  奈良時代創建期 -聖武天皇の願い-
① 7~8世紀の東洋の世界
7~8世紀の東洋の世界は、唐を中心に善隣友好の国際関係が昇華した時代であった。当時の唐朝は道教を信奉したが、同時に仏教も振興し、帰化僧による仏教聖典の漢訳の盛行もそのひつの現れであり、各地で仏教寺院が建立され、それぞれの国家の安寧と隆昌を祈願させた。
これらの政策が、わが国で聖武天皇が天平13年(741)に、国分・国分尼寺建立の詔を発する範となった。
② 8世紀の日本 -東大寺の前身寺院-
 奈良時代は華やかな時代であると同時に、政変・かんばつ・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代であった。このような混乱の中、神亀元年(724)二月、聖武天皇が24歳で即位し、待ちのぞんでいた皇太子基親王が神亀四年(727)10月5日に誕生する。ところが、神亀五年(728)9月13日、基親王は一歳の誕生日を迎えずして夭折する。聖武帝は、すぐに親王の菩提を追修するため金鍾山寺を建立(同年11月)し、良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させた。
天平13年(741)に、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。
③ 盧舎那大仏の造立
 天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。
『華厳経』の研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で3カ年を要して天平14年(742)に終了した。この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され、天平15年(743)10月15日に発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのである。もちろん、教理の研究と平行して巨大な仏像の鋳造方法や相好なども研究された上でのことであったことは言うまでも無い。
天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され、その後も講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は、延暦八年(789)3月の造東大寺司の廃止まで続行された。

盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っておられる。

④ 東大寺の創建
 国家の災害・国難などを消除することを説く『金光明最勝王経』の具現が国分寺の建立となり、さらに発展して、世界に存在するあらゆるものは、それぞれの密接な相関関係の上に成り立ち、平和で秩序ある世界を形成していると説いている『華厳経』の教理の実現が、東大寺の創建につながっていったと言えよう。
 東大寺の正式名称は、「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と言う。当初、紫香楽宮において造仏工事が開始されるが、山火事が頻発し地震の続発などにより、平城京に還ることを決意、天平十七年(745)8月、大仏造顕の工事は金鍾山寺の寺地で再開されることになった。金鍾山寺では、先の「華厳経講説」の後、天平15年(743)正月から3月にかけて『最勝王経』の講讃が、49人の学僧を招いて行なわれるなど、当時の仏教界をリードする活発な宗教活動や研究が行なわれていた。

 そもそも東大寺は国分寺として建立されたので、国家の安寧と国民の幸福を祈る道場であったが、同時に仏教の教理を研究し、学僧を養成する役目もあって、華厳をはじめ奈良時代の六宗(華厳・三論・倶舎・成実・法相・律)、さらに平安時代の天台・真言も加えた各研究所が設けられ、八宗兼学の学問寺となった。

⑤ 天平文化
 奈良時代の文化、特に聖武天皇治政の時代の文化を天平文化と称し、その国際的性格を高度に具えた特色は、まさにこの造東大寺司が原動力となり、この文化が凝固し昇華したのが東大寺であった。

⑥ 華厳の教え
こうした中、聖武天皇は天平15年(743)10月15日に「盧舎那大仏造立の詔」を発せられる。
聖武天皇は、人々が思いやりの心でつながり、こども達の命が次世代に輝くことを真剣に考えられ、動物も植物も共に栄えることを願い、さらには造像にあたっては、広く国民に「一枝の草、ひとつかみの土」の助援をよびかけられた。つまり、大仏の造立は皇室や政府の事業のみならず、国民に結縁を求め、助力によって完成しようとした点に、従来の官大寺建立とは明らかに異なるものがある。いわゆる大衆を知識(協力者)として造立を果たそうとしたもので、この精神は各時代の再興や修理にあたって、現代に至るまで常に相承されてきている。
 発願の詔が出された四日後には、すでに民衆から人望が厚く仏教伝道に実績のあった行基が、弟子たちを伴い勧進行脚に出発している。







白毫寺(びゃくごうじ)
関西花の寺二十五ヶ所の第十八番札所、境内から奈良市街が一望できる。
志貴皇子の山荘跡を寺にしたものと伝えられ、鎌倉時代に叡尊が再興。
ご本尊は阿弥陀如来、宝蔵に、重要文化財のえんま王座像がある。






新薬師寺
”新”は、”あたらしい”という意味ではなく、”あらたか”という意味、747年、聖武天皇の眼病祈願で光明皇后が開いたとも、光明皇后の眼病祈願で聖武天皇が開いたともいわれている。
ご本尊の薬師如来とこれを取り囲む十二神将。天平時代の塑像。

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地域のきずな育むそば作り

2015-03-18 07:23:49 | 閑話休題
                     常陽リビング2015/2/28掲載
地域のきずな育むそば作り~阿見町レイクサイドタウン~
休耕地を有効利用
  
  開発から約30年を経て高齢化が進む阿見町レイクサイドタウンでは、コミュニティーの活性化につなげようと2014年から地区内の休耕地でそば作りに挑戦。農家の手ほどきを受けて種まきから収穫まで住人が手作業で行い、そば打ち名人が腕を振るう試食会は「自分たちで育てるとおいしさもひとしお」と会話が弾む。息を吹き返した休耕地は2015年8月に2度目の種まきが行われ、秋には一面に白いそばの花を咲かせる。

試食会でそばを打つ名人たち

  阿見町レイクサイドタウン(阿見町大室)は1986年、霞ケ浦を見渡せる高台に造成された約170戸の住宅地。各地から新しい住民が移り住み、約30年を経て小さかった子どもたちも少しずつ巣立ち高齢の住民が増えてきた。空き家こそ少ないものの、顔が見える交流で孤立化を防ぎたいとさまざまな対策が取られてきた。
そんな中、地区内の公会堂で開かれた「男の料理教室」を受講した住民が3年前に「そば部」(青野清部長)を立ち上げ、「阿見そばを極める会」(講師/倉重一夫さん)に弟子入りし阿見町中央公民館で毎月1回、そば打ちの腕を磨いてきた。

  そば粉は地産地消にこだわって茨城大学農学部が育てたものを使用していたが、やがて「自分たちで育てたそば粉で打ってみよう」という声が上がり、地区内にあった約500坪の休耕地に目をつけ地主に相談。心よい返事を得て、まずは「自作そばを楽しむ会」と名づけて回覧で会員を募り、45人が集まった。

休耕地が美しいそば畑に復活

◆◆◆初めてのそば栽培◆◆◆
  2014年8月中旬、「自作そばを楽しむ会」(新田碩芳会長)が始動。ベテラン農家の応援を得てトラクターで畑を耕し、肥料をまいた翌日にそばの種を10キロまいた。9月に除草し、10月に殺虫剤散布。白い花を楽しんだ後、11月に手で刈り取り、昔ながらの足踏み脱穀機で3回にわたって脱穀。唐箕(とうみ)でごみを除いた後、玄そばの磨き作業。12月初めに皮をむき、いよいよ粉にして同14日、そば打ち名人らが腕を振るって最初の試食会。互いの労をねぎらい、自分たちで育てたそばに舌鼓を打った。
 「畑作業は1回2時間。無理をしないで、できる人ができる事をやります。雑草が白い花に変わっただけでも風景が一変し、花見をする人もいますよ」と区長の村木貞之さん。
 収穫量は玄そば75・5キロ、そば粉にして52・5キロと予想以上の量。玄そばは8キロを次年度の種用にし、そば粉は3回の試食会に使うほか、残った分はキロ当たり1000円で会員に販売し経費に充てる。

昔ながらの方法で脱穀する様子

◆◆◆そば打ち名人◆◆◆
  そば打ちの腕を振るうのは青野清さん、新田碩芳さん、三上慶一さん、山上秀一さん、青山秀雄さん、村木貞之さんの6人。
今でこそ腕自慢の面々も当初はそば粉がまとまらず、ゆでるとぽろぽろになって「スプーンで食べました」と苦笑い。それでも自宅庭に工房を作ってしまう人もいるほど、いずれ劣らぬ研究熱心。
今ではその日の気温や湿気を考慮して手際よくそばを打ち、さっとゆでて水で締め、艷やかに香り高いそばを仕上げる。
  去る2月8日、2回目の試食会でも6人は朝から黙々とそばを打ち、女性陣はめんつゆと季節の天ぷら、かき揚げ作りに大忙し。約3時間の作業を終えて会場に住民らを迎え、和やかな食事が始まった。
「そばを育て、収穫してみんなで食べることで地域の人が顔を合わせ、言葉を交わして助け合い、地域全体の風通しが良くなるんですよ」と村木さん。
  試食会に来られない人には自宅にそばを届け、「おいしくできましたよ」と言葉を交わす。

出来たて、打ちたて、茹でたて常陸秋そば


自宅の庭に作ったそば工房

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自作そばを楽しむ会

2015-03-18 07:23:01 | 閑話休題

レイクサイドタウン西の休耕地1反7畝(むかし、大室城の西郭)を、地主さんより提供していただき、そばの種をまき、秋に収穫、手打ちそばを楽しもうということになった。(会員45名)




H26.8.22(金)整地、及び肥料散布
肥料13号、5袋(@1,750×5=8,750円




H26.8.23(土)種まき、覆土
種10Kg、 3,000円


発芽




H26.9.6(土)間引き


蕎麦の花






H26.10.2(木)殺虫剤散布




H26.10.29 そばの実 










H26.11.14~19(3回)刈取り・脱穀




乾燥






H26.11.20 玄そばからのゴミ取り

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