さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

白馬村「福寿草まつり」

2007-04-23 22:53:40 | 閑話休題
姫川源流自然探勝園(姫川源流・親海湿原)で「第12回姫川源流福寿草まつり」が開かれ、山野草をネイチャーウォーク。姫川源流の涌き水は昭和60年に日本の名水百選にも指定されている。ここの涌き水を源とする姫川は、54kmの距離を国道148号線と平行して糸魚川へと流れ日本海に注いでいる。姫川源流湧き水

今日の成果;カタクリ福寿草ミズバショウキクザキイチゲアズマイチゲニリンソウ

帰りは、大町市美麻の「山品の手打ちそば」少し細めでコシのある美味しい蕎麦でした
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恩田杢

2007-04-23 17:59:59 | 閑話休題
 17世紀後半は元禄文化で栄えたが、18世紀に入ると、バブルがはじけ、どこの藩も財政破綻に直面。信州松代藩の真田家10万石も、例外でなかった。
 松代藩では、千曲川と犀川(さいがわ)のたび重なる氾濫で、耕地の3分の1ほどが荒廃、年貢収入は大幅に落ち込み、藩財政は破綻寸前となった。足軽の出勤拒否や大規模な百姓一揆が発生するに至る。そのようなとき、藩の財政再建を命じられたのが、恩田杢(おんだ・もく)。
 □恩田杢はまだ41歳であり、家老とはいえ末席。そんな自分に藩の財政再建を命じられた杢は、誓いを立てた。飯と汁よりほかは口にせぬこと。決して嘘を言わず、一度取り決めたことは必ず実行すること。杢は、この二つを、改革に専心する覚悟の証として宣言した。

 □藩財政を立て直すためには、税収の回復と、負債の整理が不可欠。この課題に取り組むため、杢が行ったことは、全村から領民の代表を松代に集め、対話集会を催すことだった。そして話し合いを尽くして領民の信頼と支持を得て、立て直しを成し遂げた この恩田杢の改革を伝えているのが、作者不詳の書、『日暮硯(ひぐらしすずり)』
 □恩田杢の時代は、士農工商の身分制社会。そうした社会において、武士と領民代表が集会を行い、話し合いを通じて問題を解決するという方法は、前代未聞のことだった。(タウン・ミーティング)
 □『日暮硯』によると、宝暦8年(1758)2月27日の集会において、杢は、今後の政治において、決して嘘を言わないことを宣言。そして、杢は領民代表たちに次のような提案をした。
①役人に対する贈答の類を一切なくし役人にも賄賂をとらせないようにする
②年貢催促のために村々に足軽を派遣することをやめる
③雑税を整理・廃棄する
 □対話集会、交換条件つきの新制度の提案、時限措置と話し合いによる更新、見直しと異議申し立ての機会等、フランス革命やアメリカ独立革命より前、18世紀半ばの日本で、このようにデモクラティックな民衆参加の政治が実現されていたことは、驚くべきこと。
 □恩田杢に10年ほど遅れて米沢(今の山形県東南部)の改革を手がけた上杉鷹山にも、同様の政治が見られた。これらは、わが国に日本的デモクラシーとでもいうべき伝統があることを示している。
改革の第一声
恩田杢像
上杉鷹山

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池田満寿夫美術館

2007-04-23 17:31:34 | 閑話休題
池田満寿夫は長野市出身の国際的な版画家、画家、彫刻家、陶芸作家、芥川賞作家、エッセイスト、浮世絵研究家、脚本家、映画監督など多彩な顔をもつマルチ・アーチスト。
 1934年、旧満州奉天市に生まれ、終戦によって母と長野市に引きあげた。画家、彫刻家を志して東京芸術大学を受験するが、三度とも失敗。
 上京後は夜の盛り場で似顔絵を描いて生活しながら、19歳で初めて自由美術家協会展に入選。その後、画家・瑛九(えいきゅう)のすすめで色彩銅版画をはじめ、1957年、第1回東京国際版画ビエンナーレ展に入選。1960年、同展の国際審査員ヴィル・グローマン博士の強力な推薦によって文部大臣賞を受賞して一躍脚光をあびる。
 パリ、サンパウロ、リュブリアナ、クラコウなどの国際版画展で受賞をかさね、1966年、32歳で棟方志功に次いでヴェネツイア・ビエンナーレ展の国際版画大賞を受賞、版画家として最高の評価をえる。ニューヨークと東京にアトリエをかまえ、版画の他にコラージュ・水彩・フロッタージュなど多彩な制作活動を展開する。
 1977年、小説「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞。一方、TVドラマの演出、TV番組の出演などによって、大衆の人気を集め、「もっとも著名な文化人」の一人となった。1998年に開催の長野オリンピック記念アリーナ「エムウェーブ」正面にモニュメンタルな彫刻を設置し、また池田満寿夫美術館の開館にむけて最新作陶彫、タブローを制作するなど、旺盛な活動のさなか、1997年3月8日、63歳で急逝した。
池田満寿夫美術館
池田満寿夫・佐藤陽子の創作の家
池田満寿夫の墓

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信玄・謙信一騎打ちの像

2007-04-22 22:34:01 | 閑話休題
4月21日(土)第4回信州・松代ウォーキングに参加、「川中島古戦場コース11Km」を踏破

武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討の像
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦い。いずれの戦いも、千曲川と犀川が合流する中州である川中島(現在の長野県長野市南郊)で行われたことから、川中島の戦いと総称。
□三太刀七太刀の跡
永禄4年九月十日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は、長光の太刀をぬきはなち、名馬放生にまたがり、戦状の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ本営をおそった。この時の武田信玄は、軍配を右手に持ち、この地でくずれかかる諸軍を激励指揮していた。この信玄めがけて謙信は、ただ一騎、隼の如く駆け寄りざま 馬上より流星一関、信玄は軍配でうけたが、二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷をおった。後にこの軍配を調べたところ、刀の跡が七か所もあったといわれ、一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。
□「敵に塩を送る」
戦国時代、上杉謙信が敵将武田信玄の領国の甲斐が塩の不足に苦しんでいるのを知り、塩を送らせた故事から、「敵の弱みにつけこまず、逆にその苦境から救う」という言い回しが生まれた。



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諏訪大社 上社本宮にて

2007-04-22 16:33:17 | 閑話休題
諏訪は旧石器時代からの歴史を刻む地、古事記にも登場する諏訪信仰の中心地。諏訪大社は全国にある諏訪神社の総本社。
諏訪大社本宮(諏訪市)の拝殿にて、たー&ゆうこさん二人の平成19年5月5日の門出を祝ってのご祈祷をしていただいた。(お布施料、5000円)
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朝日村光輪寺のしだれ桜

2007-04-22 16:12:42 | 閑話休題
3分咲き。
木曽義仲が光輪寺のそばに薬師堂を移したとき、お田植えされたと伝えられる。竹林とのコントラストがすばらしいしだれ桜ということで人気。
□住所 長野県東筑摩郡朝日村
    塩尻ICから 13 km 20分
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諏訪湖畔の片倉館

2007-04-22 09:25:31 | 温泉紹介
片倉館
諏訪に製糸業を起こした片倉財閥の2代目、片倉兼太郎が1928年に造った温泉リゾートである。諏訪湖の湖畔の広い敷地に建つ煉瓦造りの洋館。正面の庭は円形の噴水やベンチがあり、所々に西洋彫刻が飾られている。中の造りも昭和初期を思わせるような白い壁と赤い絨毯。普通の共同浴場とはだいぶ趣が違っている。
大浴場は千人風呂とも呼ばれている。湯船は大きな長方形で深さは腰まである。湯温はちょっとぬるめ。湯船の底に黒石が敷き詰められ、歩くと足の裏に刺激があって気持ちがよい。
片倉館の設立趣旨

□長野県諏訪市湖岸通り4-1-9
     TEL 0266-52-0604
□入館料 大人500円、小人300円

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大日向観音堂 「夫婦しだれ桜」

2007-04-22 09:10:28 | 閑話休題
わが須坂邸の庭より一望できる大日向観音堂のしだれ桜に「大日向観音堂夫婦しだれ桜」の名前がつけられ、道沿いには看板が掲げられ、ベンチも3つできました。
「村人の素朴な信仰の観音堂を両脇の二本の大樹の枝垂桜がおおって咲く。訪れる人も少なく知る人ぞ知る地元の銘木。樹勢は盛んで美しい」(信州須坂 桜MAPより)
広島からわが師、白井さんがはるばる訪れてくれ、牛に引かれて「善光寺」→源泉掛け流し「子安温泉」→手打ちそば「あがれや」→日本のさくら名所100選「臥竜公園」の夜桜などを案内。

命二つの中に生きる桜かな      松尾芭蕉 作
信濃路に友と桜と温泉(おゆ)に蕎麦 白井隆康 作 
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光前寺庭園の桜

2007-04-22 08:04:52 | 閑話休題
中央道駒ヶ根ICから車で3分、天台宗の「光前寺」は、 貞観二年(860)開基、天台宗信濃五山の一つで学問寺として栄えた。開祖は慈覚大師(円仁)のお弟子さんの本聖上人。武田家、徳川家の保護を受け両家の祈願所として信仰を集めた。光苔(参道の石垣)・庭園を含め寺全体が国の名勝庭園の指定されている。 「早太郎」伝説がある。
光前寺
早太郎の物語
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諏訪、高島城の桜

2007-04-21 23:06:37 | 閑話休題
諏訪の高島城は別名”浮城”とも呼ばれ、諏訪氏の居城。400年ほど前の慶長3年、豊臣秀吉の武将、日根野織部正高吉により築城、昭和45年5月に復興された。敷地内の公園は桜の名所となっている。
高島城

 
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