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2021.5.30(日)下小池城址ハイキング、参加14名、ガイドは小池城址公園里親の会:青木会長
◇下小池城
乙戸川を南に見下ろす台地の縁に構築された総面積15ヘクタールの城郭跡。中世戦国時代、土岐氏(江戸崎城)が構築、西方の佐竹・多賀谷勢力に対峙する境目の城。
◇土岐氏
室町時代、嘉慶1(1387)年頃、美濃国(みののくに、今の岐阜県)出身の武士・土岐原氏が室町幕府の重職である関東管領上杉氏の求めにより、信太莊(しだのしょう)惣政所(そうまんどころ=直接その土地に根付いて統治する職務者)として赴任してきた。
土岐原氏は江戸崎城を拠点にして稲敷地方一帯を約200年にわたり統治した。後継問題で、お家騒動が発生したとき、その隙に乗じた小田氏(小田城、つくば市)により江戸崎城は一時期、占拠されたが、すぐに奪い返している。
土岐原氏は、天文12(1543)年頃、姓を土岐氏に改めた。これは美濃土岐氏が滅亡したため、江戸崎土岐原氏が「土岐氏」の総領になったためと考えられている。
戦国末期には、土岐氏は小田原・北条氏の圧力に屈し、その傘下に組み込まれるようになった。天正18(1590)年の小田原征伐では、北条方の勢力だったため、豊臣秀吉方についた佐竹氏らと対立した。
豊臣秀吉は小田原攻め成功で天下統一、その余波を受け土岐氏は滅亡した。
この時代に土岐氏(江戸崎城)の出城が阿見町に構築された城郭、館跡
・霞ヶ浦沿い・・・大室城、廻戸城、島津城、立の越館、竹来館、掛馬館
・清明川沿い・・・塙城、上条城
・乙戸川沿い・・・下小池城、上小池城、福田城
◇江戸崎城
江戸崎土岐氏の本城。室町時代から戦国期にかけて土岐氏が信太莊支配および霞ヶ浦の水上権益を守るために築いた城。
天正18(1590)年の江戸崎城落城後、佐竹義宣の弟、芦名盛重が入城した。
秀吉亡き後、慶長5(1600)年、天下分け目の「関ヶ原の戦い」に中立的立場をとったため、徳川家康の命令で慶長7(1602)年、秋田に国替え、江戸崎城は廃城となった。
◇芦名盛重(あしな もりしげ)
父:佐竹義重、兄:佐竹義宣、11歳で後嗣絶えた会津・蘆名氏に迎えられて20代当主となるが、伊達氏に敗れ、常陸・佐竹氏に戻った。翌年、豊臣秀吉から、常陸・江戸崎に4万5千石を得るが、関ヶ原の戦い不参加の為に、徳川家康より所領没収され、以後兄に従い、秋田へ。56歳で没。
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ベジ・ガーデン(若栗)
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ばら園(実穀)