さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

ミャンマー訪問

2023-01-20 17:50:07 | 海外旅行
2010/10/7~10/13ミャンマー(ビルマ)を訪問、多くの日本兵を亡くしたビルマ戦線の跡をたどってきました。
大東亜戦争下のビルマ及びその周辺では、開戦から終戦までの長期にわたり戦闘が続き、作戦に投入された兵力303,000人のうち、その半数以上の将兵がこの地で戦死している。
□ミャンマー連邦共和国
1989年までの名称はビルマ。首都はネピドー。1989(平成1)年に軍事政権が、国名をUnion of Myanmar、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。
人口4200万人(推定)、多民族国家、国内には135の民族が居住している(ビルマ族70%、シャン族9%、カレン族6%・・・)。面積は日本の約1.8倍。宗教は国民の85%が仏教徒。通貨はチャット(Kyat)1000チャット=約100円。日本との時差ー2時間30分。ミャンマー入国にはビザが必要。

□イギリス統治時代
ビルマ王朝は、英緬戦争で敗れて、1885年に滅亡する。
1886年に、イギリス領であったイギリス領インドに併合されてその1州となる。
1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領になる。
1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐(ビルマ戦役の始まり)。
1943(昭和18)年、日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。その後、インパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚とみるや、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は1945年3月、日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としている。
□独立
1948(昭和23)年にイギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦として独立するが、直前の1947(昭和22)年7月19日にアウンサンは暗殺された。初代首相には、アウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任した。
□軍事政権
ネ・ウィン将軍は1958年から1960年の選挙管理内閣期を経て、1962(昭和37)年に軍事クーデターを起こした。
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アウンサンスーチー

2023-01-20 17:49:37 | 海外旅行
アウンサンスーチー
 ミャンマーにおける非暴力民主化運動の指導者。1991年、ノーベル平和賞受賞。ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」アウンサン将軍の娘。ビルマの首都だったラングーンに生まれた。1960(昭和35)年に母親がインド大使に着任、アウンサンスーチーはデリーの学校で学んだ。1962-63年にはデリー大学で政治学を学ぶ。1964-67年にはイギリスのオックスフォード大学で哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得。 1969-71年にはニューヨークの国際連合事務局で書記官補となった。
 1972(昭和39)年にオックスフォードの後輩でチベット研究者のマイケル・アリスと結婚し、2人の息子をもうけた。その後1985(昭和60)~86年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、父アウンサン将軍についての歴史研究を進めた。
 学生を中心に始まった反政府運動は、デモ中の学生が虐殺された1987(昭和62)年3月以降に激化した。同年7月に軍事クーデターより独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍が辞任。戒厳令下で学生、市民らが大規模なデモを行った。アウンサンスーチーは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行った。9月18日には国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。アウンサンスーチーは1989(平成1)年9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指し、国民民主連盟(NLD)の結党に参加する。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁された。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否した。
 軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝した。しかし軍政側は権力の移譲を拒否した。激しい国際的な非難を招き、アウンサンスーチーは91年にノーベル平和賞を受賞した。賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。
1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、最終的に軍政により中止に追い込まれる。
2002年5月6日に自宅軟禁は解除される。その後NLDの党組織再建のため、各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。
2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。襲撃の責任者が現首相のソー・ウィン中将とされる。その後は軍施設に連行され、三度目の軟禁状態に置かれる。
2009年5月、アメリカ人の男が自宅に侵入したのが軟禁条件違反に当たるとして、「国家転覆防御法」違反の罪で起訴される。8月11日、国家転覆の罪で禁固3年の実刑を言い渡し、直後に執行猶予と1年6か月分の特赦を付けて再度の軟禁状態に置いた。
2012年4月1日に行われたミャンマー連邦議会補欠選挙にNLDより立候補 し、当選を果たす。5月2日に正式に議員に就任。
2013年4月13日、27年ぶりに来日。在日ミャンマー人や、京都滞在中に家族ぐるみの付き合いをしていた日本人との懇談や、経済界へのミャンマーへの支援の呼びかけ、安倍晋三首相などの日本政府要人との会談を行う。龍谷大学で講演を行い、講演では、仏教の慈悲に基づく非暴力民主化運動を行う必要があると論じ、「仏教の教えを心に置きながら変革を進めないといけない」と述べた。
「事実上のアウンサンスーチー政権」の樹立
2015年11月8日に実施された総選挙において、NLDが圧倒的な勝利を収め、アウンサンスーチー自身も連邦議会下院議員に当選したことが選挙管理委員会に発表された。10日に行われた外国メディアの取材に対し、アウンサンスーチーは新たに選出される新大統領について、憲法上アウンサンスーチーの就任が禁じられていることに合わせた措置に過ぎず何らの権限を持たない傀儡であり、「私がすべてを決定する」と断言した。
2016年3月、ティンチョーが大統領に就任し、新政権が発足した。日本のマスコミはこの政権を「事実上のアウンサンスーチー政権」と評価している。アウンサンスーチーは外務大臣、大統領府大臣、教育大臣、電力エネルギー大臣の4閣僚を兼任した。
4月6日、国家顧問のポストを新設し、それにアウンサンスーチーを任命する法案が成立した。この「国家顧問」は、憲法の規定で大統領に就任できないアウンサンスーチーに国家の最高指導権を委ねるための措置であるとみなされている。国家顧問は大統領に政治上の「助言」を与えることができるとされているが、アウンサンスーチーの「助言」は事実上、大統領への「指示」となっており、このためアウンサンスーチーが事実上の首相とみなされることもある。
2017年9月、ミャンマー政府がイスラム系少数ロヒンギャの村を放火した事実がBBCにより放映された。これらミャンマー政府によるロヒンギャへの対応について、国連関係者から「民族浄化」であるとの指摘がされる
2020年11月8日に執行された総選挙ではNLDの苦戦も予想されたが、蓋を開けてみれば圧勝となった。惨敗を喫した国軍は不正投票があったと主張。
2021年2月1日未明にミャンマー国軍によって起こされたクーデターによりアウンサンスーチーは拘束された。議会における四分の一の議席など軍への特権を認める憲法の改正をめぐって軍とアウンサンスーチーには確執があった。

軍の意向によって、スーチーは以下の罪状で訴追されている。
①スーチーの家宅を捜索した際に、不法に輸入し許可なく使用されていた携帯型の無線端末を発見されたとして、不正輸入罪で訴追。
②新型コロナウイルス対策を十分に施さなかった自然災害管理法違反で訴追。
③恐怖や不安を招く情報を流したとする刑法違反で訴追。
④通信機器の免許について定めた電気通信法違反で訴追。
⑤2017年12月から2018年3月にヤンゴン地域の高官から現金60万ドル(約6500万円)と金塊を受け取った収賄で訴追。
⑥また別に汚職4件でも訴追。
⑦国家機密漏洩罪で訴追。共犯として経済顧問のオーストラリア人を含め5人が訴追。
 2021年12月6日に軍への反対意見を煽り社会不安を与えたことによる刑法違反容疑、新型コロナウイルス対策の規則に違反した自然災害管理法違反容疑で有罪となり、禁錮4年の実刑判決が下ったが、後にミン・アウン・フライン国軍総司令官の指示で2年に減刑されている。しかし2022年1月10日には無線機を密輸し自宅にて所持した容疑、さらに新型コロナウイルス対策の別の規則に違反した容疑でも有罪となり、懲役4年。同年4月27日には汚職防止法違反容疑で有罪となり、禁錮5年。同年8月15日、4件の汚職防止法違反容疑で有罪となり、禁錮6年となった。これまでで刑期は合計17年となっている。

2022年6月22日、ミャンマー国軍はスーチーを軟禁先から首都ネピドーにある刑務所の独房に移送した。
2022年9月2日、裁判所はスーチーに選挙違反の罪で禁錮3年の判決を言い渡した。これまでに下された判決10件とあわせ禁錮刑は計20年になった。12月30日、裁判所はスーチーに汚職防止法違反の罪で禁錮7年の有罪判決を言い渡した。訴追された全19件全てで有罪認定されたことになり、禁錮と懲役を合わせた刑期は計33年となった。

※ミヤンマーの選挙、軍政恒久化の方策。
①上院224議席、下院440議席。それぞれ、軍人が1/4枠をもっている。
②3/4枠を一般議員として選挙するが、軍人が選挙の時だけ、軍人籍をハズして、一般人として立候補し、組織票をバックに選挙戦を有利に戦い、選挙が終われば軍人籍に戻る。
③大統領は、両院の軍人枠の議員より選出する。
④副大統領2名は、上院、下院からそれぞれ一名選出する。
⑤議員に立候補するには、供託金が500ドル必要(ミヤンマーの平均年収42,000円より多い)また、刑事事件で有罪になった者は立候補できない。(アウンサンスーチーは立候補できない)
⑥政権放送は憲法や国軍への批判は禁止。(事前検閲)
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インパール作戦

2023-01-20 17:49:05 | 海外旅行
インパール作戦
インド北東部の都市インパールは、イギリス軍の反攻拠点だった。第15軍司令官牟田口廉也中将は、インパールの攻略によって連合軍の反攻の機先を制し、さらにインド国民軍によってインド国土の一角に自由インド仮政府の旗を立てさせることでインド独立運動を刺激できると考えた。
牟田口の案は、第15軍の3個師団に3週間分の食糧を持たせてインパールを急襲し占領するというもの。そのためには川幅1,000メートルのチンドウィン川を渡り、標高2,000メートルのアラカン山脈を踏破せねばならない。さらに困難な問題は作戦が長期化した場合の前線部隊への補給だった。ビルマ方面軍は牟田口の案を無謀だと判断したが、大本営は最終的にこの案を支持。背景には、各方面で敗北続きの戦局を打開したいという思惑があったと言われる。
1944年3月8日に、作戦を開始した。当初、作戦は順調に進むかに見えたが、この地域を守備していたイギリス第の後退は予定の行動だった。インパール周辺まで後退し、日本軍の補給線が伸びきったところを叩くのがイギリスの作戦だった。
4月5日、宮崎繁三郎少将の率いる歩兵第58連隊がコヒマへ突入した。だがイギリス軍が反撃に移り、コヒマをめぐる戦いは長期化した。南からの第33師団の前進もイギリス軍の防衛線に阻まれていた。日本軍はインパールで包囲したものの、イギリス軍は補給物資を空輸して持ちこたえた。
 やがて雨季が訪、日本軍の前線部隊は作戦開始以来満足な補給を受けておらず、弾薬は尽き飢餓に瀕していた。軍司令部へ補給を要請するが、牟田口は空約束を繰り返すのみ。作戦成功の望みがなくなったにも関わらず、牟田口は攻撃命令を出し続けた。第33師団は、インパール南側の防衛線ビシェンプールへの肉弾攻撃を繰り返した。

□ 白骨街道
 7月3日、日本軍は作戦中止を正式に決定した。将兵は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながらの退却戦は悲惨なものになった。退却路に沿って死体が続く有様は「白骨街道」と呼ばれた。
インパール作戦は、イギリス軍側の損害17,587名に対し、日本軍は参加兵力約85,600名のうち30,000名が戦死・戦病死し、20,000名の戦病者が後送された。インパール作戦の失敗はビルマ方面軍の戦力を決定的に低下させた。
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オカラッパ日本人墓地

2023-01-20 17:48:30 | 海外旅行
1994年2箇所の日本人墓地を集約したもので、戦没者慰霊碑の他に明治時代から現代迄になくなった日本人の墓石が多数置かれていた。
後列の左より
浅見晃甲(あさみ てるまさ)大阪府豊中市、80才、最高齢。
斉藤紀久江(さいとう きくえ)千葉市、戦争歴史書作家。
大西啓義(おおにしひろよし)東京都大田区、経営コンサルタント。
永江太郎(ながえ たろう)川崎市 財団法人 日本学協会
浅田 均(あさだ ひとし)東京都中央区 日本エアービジョン(株)
吉田 修(よしだ おさむ)東京都江戸川区 戦跡資料収集家
村木貞之(むらき さだゆき)茨城県、経営コンサルタント。
宮地正美(みやち まさみ)武蔵野市
河野義男(こおの よしお)川崎市 戦跡カメラマン、セキスイハウスOB
前列の左より
尾崎 梓(おざき あずさ)伊豆長岡市 医者、老人ホーム経営
向後廣道(こおご ひろみち)千葉県鎌ヶ谷市、社会教育家。
玉野由蔵(たまの よしぞう)小山市 シルバー会会長、民生委員
鵜野幸一郎(うの こういちろう)東京都世田谷区、日本セキュアテック研究所
滝沢晴美(たきざわ はるみ)横浜市、浅田ツァー追っかけ。
荒川 誠(あらかわ まこと)栃木県下都賀郡、玉野氏の弟
高山正之(たかやま まさゆき)東京都世田谷区、新聞屋、フリージャーナシスト・週間新潮連載
横山勝重(よこやま かつしげ)東京都文京区、元NKK・造船エンジニア、
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タペイワ村慰霊碑

2023-01-20 17:47:50 | 海外旅行
メイクテーラーに通じるマンダレー街道沿いのタペイワで、第8師団のメイクテーラー突入掩護の為、駆けつけた第33師団・歩兵第215聯隊を慰霊。

一行で、国家・君が代、海行かばを合唱 黙祷を捧げた。
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弓兵団の慰霊

2023-01-20 17:46:13 | 海外旅行
ツァー参加者の栃木県小山市・玉野由蔵氏の奥様の叔上「玉野義雄少尉」を慰霊した。タビイニュ寺院。
※弓兵団
  宇都宮で招集された兵は、弓兵団と称し、ビルマ方面軍(昭和18年3月に新設)に加わった第33師団のこと。
※弓兵団の慰霊碑
  弓師団の歩兵第215連隊(高崎)の戦友会が、昭和62年に建立した。碑文によると、この連隊は昭和20年3月4日から5日にかけてタベイワで戦ったとある。

※玉野義雄少尉の軍歴(大正11年7月3日生まれ、生きていれば89才)
昭和18年4月10日22才、歩兵第214聯隊要員現役兵として歩兵第66聯隊補充隊第10中隊に入営
    6月14日 第1期検閲終了
    7月7日 屯営出発
    7月15日 門司港出帆
    8月9日 シンガポール上陸
    8月31日  〃  出発
    9月1日 陸軍1等兵 幹部候補生に採用
    9月11日 ラングーン港上陸、歩兵第214聯隊に転属、第10中隊に編入
    9月19日  〃  出発
    9月22日 バコック県バコック部隊本部到着、同日より、付近の警備につく。
    11月1日 陸軍上等兵に昇進
    12月1日 陸軍伍長に昇進、甲種幹部候補生を命ず
昭和19年3月1日 23才、陸軍軍曹に昇進
    4月1日 陸軍曹長、見習い士官を命ず
昭和20年1月11日 陸軍少尉 第10中隊付
    2月10日 イラワジ河畔の会戦に参加、バコック県カンラ附近の戦闘において、頭部貫通も銃撃を受け脳損傷の為戦死。陸軍中尉に特任。

□軍隊での位
元帥→大将→中将→少将→大佐→中佐→少佐→大尉→中尉→少尉→准尉
曹長→軍曹→伍長→上等兵→一等兵→二等兵

□部隊編成(おおまかな軍隊組織図)
・師団→ 旅団→ 連隊(聯隊)→中隊→ 小隊
 1師団(2万人位)は、2旅団(各1万人位)からなり
 1旅団(1万人位)は、4個連隊(各3千人位)
 1連隊(3千人位)で、4個中隊(各6百人位)からなる
 1中隊(6百人位)で4個小隊(各小隊は150人位)
 1小隊(125~150名位)


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メイミョウの第15軍司令部跡(第3高等学校)

2023-01-20 17:45:10 | 海外旅行
19世紀後半、全土がイギリスの植民地となり、大勢のイギリス人を始とする欧州人がビルマやってきて、植民地経営を行っていた。彼らは、低地の暑さに参ってしまい、どこか過ごしやすいところはないかと探し、発見したのがメイミョウである。高原地帯に出来た避暑地には、カントリーハウス風のホテルや別荘が建てられた。
マンダレーの約70Km東にあり、海抜約1100mの別天地のように涼しい、日本の軽井沢。
□司令部跡の歴史
1909(明治42)年 イギリス人が尼養成の女学校(ミッションスクール)建設
1943(昭和18)年4月~1945(昭和20)年3月 日本の第15軍司令部。インパール作戦の可否を検討する図上演習や師団長会議が開催された。
         大東亜戦争後は、再度ミッションスクールとなる。
1965(昭和40)年 第3高等学校に変わる。
         軍人の師弟が主で、小学校(5年制)、中学校(4年制)、高校(2年制)。授業は英語で行われ、校長は、軍人のクララ大尉。  
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マンダレー王宮

2023-01-20 17:41:57 | 海外旅行
マンダレー王宮
 王宮は、ビルマ最後の王朝になったコンバウン朝の王宮、11代目MINDON王は、東西南北夫人含む200人の妃(きさき)を持ち、150人の子供がいた。東西南北夫人の中では、南夫人がトップで王座に座った。150人の中からTHIBAWが12代目の王となったが、実母とSUPAYALAT妃の言いなりで、SUPAYALAT妃にけしかけられ、英軍と戦端を開き敗北。英軍によりインドに幽閉され、糖尿病により64才で死亡した。
 軍事政権は1993(平成5)年王宮を修復し開放したが、ぞんざいな修復で屋根はブリキ、壁は金色のペンキ、床の一部は崩れ落ち往事を偲ぶものはなかった。

英国占領後のマンダレー城は・・・・・
①1885年 刑務所
②英軍駐屯地
③日本の第15師団の駐屯地(大東亜戦争中は、日・英が互いに空爆)
④現在、ミヤンマーの軍隊が駐屯している
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メイミョウの陸軍墓地

2023-01-20 17:40:46 | 海外旅行
畑中に残る陸軍墓地
メイミョウの街のはずれにある畑の広がる地域があり、細い農道を軽トラックの荷台に乗って日本軍の墓地を訪れた。土地の所有者で墓地を管理している人は、地元の漢方薬医とのことであり、我々の訪れを知らされ家族とともに掃除をしながら迎えてくれた。
21名の将兵らが埋葬されている。碑の裏に「昭和22年4月30日建立」とあることから、この地に収容されていた将兵らが、祖国日本への復員を前に改めて亡き戦友を弔ったもとと思われる。

※南機関(みなみきかん)
1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。機関長は鈴木敬司陸軍大佐。ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献した。南機関は、今日の日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたとも評価される。
当時日本と中国とは日中戦争の最中にあった。中国の蒋介石政権は重慶へと逃れながらも、英米等からの軍事援助を受けて頑強に抗戦を続けていた。軍事物資の輸送ルートとしては、1.フランス領インドシナ、2.ビルマ、3.ソ連から中国内陸部、4.中国沿岸を経由する各ルートがあった。ビルマルートはラングーン(現在のヤンゴン)の港から、マンダレーを経由し、山岳地帯を越えて中国に達する道路で、1940(昭和15)年にはビルマルートの輸送量が最も多くなっていた。
日本軍は、外交交渉や橋梁爆撃などによるビルマルートの遮断に務めたが、その達成には苦慮していた。1940年3月大本営陸軍部は、参謀本部の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木大佐はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。こうして、外国勢力の援助を欲していたビルマ民族主義者と日本との提携が成立へと動き出した。
彼は、内密にビルマ独立の志士タキン党のオン・サンとラミヤンの二人を郷里の浜松に招いて秘策を練った。
やがて1941(昭和16)年2月、彼を長とする「南機関」を作った。南機関は、ビルマから30人の志士を集め、海南島で猛訓練を行った。開戦後、バンコクでBIA(ビルマ独立義勇軍)を編成。軍司令官に鈴木が就任、やがて南機関の解散に伴い、オン・サンに引き継いだ。
ビルマが終戦後独立すると、30人志士の一人であったオン・サンの右腕、ネ・ウィンが首相となった。
ビルマの第33回目の独立記念日に当たる1981年1月4日、ビルマ軍事政権は、ビルマ独立に貢献した7名の日本人に対して感謝の意を表し「アウン・サン勲章」を授与した。その7名とは鈴木敬司の未亡人、杉井満、川島威伸、泉谷達郎、高橋八郎、赤井(旧姓鈴木)八郎、水谷伊那雄で、全員が南機関関係者であった。






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北部ルソン島、マバラカット特攻記念碑

2023-01-16 15:25:49 | 海外旅行
フィリピン 北部ルソン島戦跡めぐりの旅5泊6日
平成24年2月10日(金)~2月15日(水)、日本エアービジョン浅田ツァー
●日本軍は、昭和16年12月8日のハワイ真珠湾攻略と同時に、南方への進撃を開始。フイリピン攻略は開戦当日の米空軍基地への奇襲攻撃から始まった。マッカーサー司令官は、マニラでの防衛戦を断念、パターン半島とコレヒドール島に約15万の米比軍を移動させ籠城作戦に切り替えた。昭和17年1月2日、日本軍はマニラを無血占領した。
●この国は、日本軍による植民地からの解放を歓喜で迎えてくれたジャワ、ビルマ等のアジア諸国と違い、フリピンは事実上の支配者は米国であったが、既にヒイリピン人による自治政府が存在しており名目上は植民地ではなかった。民衆は、米国に好意的であり、日本軍に対しては反抗的であった。
●日本軍は軍政を敷いたもののフィリピンの独立を認め、新政権を支援したが、結局は米軍の謀略とフィリピン人ゲリラの組織化に苦しめられた。
●反攻の機を窺っていたマッカーサーは、昭和19年10月頃よりフィリピン奪回にむけての作戦を開始し、10月12日にフィリピン中部のレイテ島に上陸した。
●昭和19年12月、日本はレイテ決戦を諦めルソン島での作戦に切り替えた。しかしルソン島決戦は、「本土決戦」の時間稼ぎの意味しかなかった。日本の第14方面軍は、ルソン島で兵力を三分しそれぞれの地域で、米軍を釘付けにすることを使命とされた。北部バギオに主力の6個師団、兵力152,000人「尚武集団」を置き、この地を中心に持久戦を展開することになった。、その南方のクラーク飛行場群と周辺に兵力30,000人「建武集団」を配して航空基地の防御にあたらせ、マニラの東方には兵力2個師団、105,000人「振武集団」を配置し米軍侵攻に備えた。ルソン島の兵力は合計28万7千名であった。
 今回の北部ルソン島の旅は、山下大将の足跡を辿る旅でもある。






マバラカット東飛行場跡(神風特攻隊記念碑)
昭和19年(1944年)10月25日朝7時25分、5人の神風(しんぷう)特攻隊「敷島隊」がここマバラカット東飛行場から出撃、特攻第一号としてレイテ沖に突入した。
零戦に250キロ爆弾を搭載して敵に体当たりするという特攻作戦が開始された。
記念碑は、1974(昭和49)年、ダニエル・ディソン画伯が中心になり地元の有志が建設、1991(平成3)年6月ピナツボ火山噴火の土石流で埋没。1999(平成13)年、マバラカット市観光課が再建。


 この朝日 機体に浴(あ)みつつ
  征(ゆ)きしや 敷島隊の
    五機は還らず
       マバラカットの朝 7時25分
  (2012年2月10日ー15日、フィリピンの旅、向後廣道氏作)


最初の神風特攻隊が東のアラヤット山の方向に飛び立った。
■神風特攻ぼ先陣・敷島隊 5軍神
隊長1番機 海軍中佐    関 行男 西条市出身 23才
  2〃  海軍少佐    中野盤雄 福岡県出身 19才
  3〃  海軍少尉    谷 暢夫 京都府出身 20才
  4〃  海軍飛行兵曹長 永峰 肇 宮崎県出身 19才
  5〃   〃      大黒繁男 新居浜市出身20才
       (階級は、戦死後の二階級特進による)
■関行男大尉の母は、愛媛県西条市の故郷で、軍神の母として祭り上げられ涙を見せることもできなかった。やがて敗戦、英雄の母は一転して軍国主義の推進者といわれ、追われるように町を出て、石鎚山のふもとの小さな中学校の住み込み用務員となり、昭和28年、用務員室でひっそり亡くなったという。『私に備わった運命 人を恨んでもしょうがない』と終始言い続けたとのこと。

□フィリピンでの特攻作戦
投入機の数と、戦死者
陸軍 178機 226名
海軍 零戦264機 264名、 その他71機 158名




マバラカットは、首都マニラの北方約80kmにある町

● 2月10日の成田空港を飛び立ったあと、その日に、二人の大切な人が亡くなりました。今回の旅では、戦没者のお墓参りを随分しましたが、現世と来世の間をさまよう旅・・・・・・・?
一人は、稲沢の義母が亡くなりました。もう一人は、しんらいの会の設立以来、監事を私と一緒にやっていた、筑波銀行の元常務・新堀喜久さんです。
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