さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

信玄・謙信一騎打ちの像

2007-04-22 22:34:01 | 閑話休題
4月21日(土)第4回信州・松代ウォーキングに参加、「川中島古戦場コース11Km」を踏破

武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討の像
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦い。いずれの戦いも、千曲川と犀川が合流する中州である川中島(現在の長野県長野市南郊)で行われたことから、川中島の戦いと総称。
□三太刀七太刀の跡
永禄4年九月十日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は、長光の太刀をぬきはなち、名馬放生にまたがり、戦状の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ本営をおそった。この時の武田信玄は、軍配を右手に持ち、この地でくずれかかる諸軍を激励指揮していた。この信玄めがけて謙信は、ただ一騎、隼の如く駆け寄りざま 馬上より流星一関、信玄は軍配でうけたが、二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷をおった。後にこの軍配を調べたところ、刀の跡が七か所もあったといわれ、一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。
□「敵に塩を送る」
戦国時代、上杉謙信が敵将武田信玄の領国の甲斐が塩の不足に苦しんでいるのを知り、塩を送らせた故事から、「敵の弱みにつけこまず、逆にその苦境から救う」という言い回しが生まれた。



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