本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

史実と違う話4

2010-10-23 11:05:55 | Weblog
 前回で述べたとおり、咸宜園の入門簿には高野長英の名はない。幼名も実名も号もない。
 そこで、わずかに考えられるのは変名である。これについて、『咸宜園出身八百名略伝集』なる冊子に、記録は確かにないが、「文政11年5月8日、江戸三十間堀、島道勇」と記入した入門者が長英ではないかと推定している。

 しかし、この入門時期、長英は長崎のシーボルトの鳴滝塾に留学中だ。とても二股をかけられるはずはない。また、シーボルト事件(国禁の日本地図を持ち出して関係者が処罰された事件)の発端は、その年の9月である。事件関与の嫌疑から長英は名を変えて潜伏したとされているが、事件以前の5月の入門であれば、島なにがしと変名を用いる必要はあるまい。

 先の鶴見著では、その翌年すなわち文政12年に「(長英は)漢学者廣瀬淡窓の塾にしばらくとまり」と触れている。こちらの時期に可能性はないでもないが、この道中に記した診療記録『客中案証』に豊後街道筋の地名は出ていないといわれ、咸宜園立ち寄りに疑念を抱くひとつになっている。百歩譲って逗留したとしても門人ではなかろう。
 高野長英を咸宜園門下生の筆頭に挙げているのは、無茶というほかない。

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