一言で言えば「亡国のイージス」は設定やストーリーは面白いが映画としての完成度は?「ローレライ」はエンタテインメントとしてみればよくできた映画、でした。
※ 以下ネタバレ注意です。
「亡国のイージス」は、イージス艦という最新鋭の防空能力(一定範囲内の攻撃能力と言ったほうがいいか)を持つ艦船を配備しても、守るべき国家がこれでいいのか(まあ、そこまで言わなくても)しっかりした交戦規定がなくて本当に「防衛」ができるのかという問いかけがベースにあります。
そこを中井貴一扮する北朝鮮の工作員に「日本人、これが戦争だ!」とつかれてしまうわけです。
それに対して真田広之扮する先任伍長(ノンキャリの現場責任者ですね)と内閣府の特殊工作員(僕の知らない若い役者)が反発しあいながらも艦を救うという話です。
多分原作の小説はとても面白いのではないかと思うのですが、いかんせん映画の限られた時間(90分とスタンダードな長さなのは、製作時には不安があったのでしょう)のなかではそれぞれのキャラクターの造形が不十分に感じました。
結果的に問題提起の作品としては問題の提示が不十分で、アクション映画としても物足りない、という残念な感じがしました。
中井貴一の工作員も状況が悪化したらとっととミサイルを発射してしまうべきだと思いますし、その他の工作員も最後はあっけなく自殺してしまいます(責任者の死はどうやって確認したのか、また、その場合に次順位の者が任務を代行するのではないのか?)「子R手が戦争なんかい?」とツッコミたくなりました。
また、日本の工作員も「向こう気は強そうだけど基本は紅顔の美少年」という感じの俳優で、今ひとつ「冷酷な工作員」という感じがしません。
彼は、反乱に荷担したが改心しかけた自衛官を問答無用で射殺したときに真田広之から「撃つ前に考えろ」と言われ、肝心な中井貴一と遭遇したときに躊躇して撃たれてしまうわけですが、そこのとろの心境の変化が良く分かりませんでした(それに、相手の親玉なら躊躇せずに撃つべきなんでは?)
撃たれた彼が真田広之に「撃つ前に考えた」と言った時に、真田広之は「馬鹿、考える前に考えるんだ」という場面があるのですが、これは単なる叱咤なのかそれとも「交戦規定をきちんと作ってそれを実行しないと意味がない」という比喩なのか、ちょいと考えてしまいました。
2時間くらいかけた作品だともうちょっと良くなったのではと思います。
次に「ローレライ」を観たのですが、これは「亡国のイージス」の成功で資金がついたこともあり、作者が監督の勧めにより、映画のために書き下ろした作品だそうです。
なので、エンターテインメントとしては良くできています。
ただ、設定としては(秘密兵器「ローレライ」は別にしても)無理がある部分(そもそも訓練もなくいきなりドイツ製の船に乗って簡単に繰艦できるのか、とか、じゃあ、そもそも日本まで運んできた乗組員はどこにいったんだとか、潜水艦の回転式砲塔ってどこで気密をしてるんだとか、和平工作といいながらそんな簡単に米軍が軍事機密を漏らすのかとか)が多々みられますが、主役の役所広司はじめ、芸達者の俳優が揃っているので最後まで飽きずに観ることができます。
ただ、教訓、とか、考えさせられる部分は「亡国のイージス」よりも少ないです。
PS 邦画に出てくる外人の役者って、どうして皆下手(インチキくさく見えてしまう)なんでしょうか(ギャラのせい?日本で調達するせい?)
![]() |
![]() |
前のエントリを書いていてまたまた 「ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則」を思い出したので。
同書のなかで「ストックデールの逆説」として取り上げられているものがあります。
これは著者がジム・ストックデール将軍へのインタビューから得たもの。
ストックデール将軍は、ベトナム戦争時ハノイの捕虜収容所で1965年から73年までの8年間収容されいつ釈放されるか分からない状況で20回以上にわたる拷問を受けながらも、最高位のアメリカ軍人として、捕虜の責任者として多数の捕虜の生き残りのために全力を尽くした人物。
筆者の「収容所生活に耐えられなかったのは、どういう人たちですか」という質問に対して、ストックデールはこう答えます。
「楽観主義者だ、そう、クリスマスまでには出られると考える人たちだ。クリスマスが近づき、終わる。そうすると、復活祭までには出られると考える。そして復活祭が近づき、終わる。つぎは感謝祭、そしてつぎはまたクリスマス。失望が重なって死んでいく」
「これはきわめて重要な教訓だ。最後にはかならず勝つという確信、これを失ってはいけない。だが、この確信と、それがどんなものであれ、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視する規律とを混同してはいけない」
「移民と現代フランス」のなかでも、成功者として取り上げられている人々のインタビューを見ると、上の「ストックデールの逆説」と同様の考えをしている人が多いことに気づきました。
言われてみればもっともなんですが、自らを省みると実践は難しそうです・・・
年末年始シリーズ第6弾(しつこくてすみません)
今回は「移民と現代フランス―フランスは「住めば都」か」 集英社新書
去年11月のフランスでの暴動のときに買って「積読」していたものです。
著者も断っているとおり、これは学術書ではなく移民へのインタビューを中心にしたルポルタージュの形式をとっています。
なので、マクロの数字などについては細かく出てはいないのですが、インタビューを通じて移民の抱えている問題がリアリティを持って浮かび上がってきます。
暴動の時には差別と失業問題が主な要因としてあげられていましたが、ご多分に漏れず実態はもっと複雑なようです。
確かに移民への差別はあり、特にアラブ人(「ブール」というアラブの逆さ読みの蔑称で呼ばれる)さらにマグレブ(アルジェリア、チュニジア、モロッコ)人に対する差別が激しいようです。
一方で移民の側にも、伝統的な家族観からくる問題があるということです。
一般に移民一世はフランス語が満足にしゃべれず読み書きもできない事が多く、また、祖国の伝統的な考え方を持ち込んでいるために子供たちとのコミュニケーションのギャップがあります。
特に女子については子守や家事の労働力であり、成人してからは穢れの対象としてみており、初潮以後は外出も容易に許さないくらい家に縛り付けてしまうことで女性の修学・自立を阻んでいるそうです(これは同じように育った母親の側からの圧力が大きい)。
「ちゃんとした服を着て、家も食事もテレビもあり、学校まで行っている、これ以上何が欲しいんだ」というわけです。
反面男子はわがまま放題に育ってしまい、親が教育熱心でない(または費用がない)こととあいまって、非行化しやすいという部分もあるようです。
さらに制度面も経済情勢や世論によって二転三転し、「サン-パピエ(sans papier = without paper)」と呼ばれる正式な滞在許可証のない移民を大量に抱える一方で、新たな移民の受け入れをしようとするなど、一貫しない政策が移民にストレスを与えています。
制度面で象徴的なのは、一夫多妻制に関して。
1993年の法改正で従来の滞在許可証(有効期間10年)を持っている移民はその権利を持続できる事になったが、一夫多妻制の人はその効力を過去に遡ることになろました。
つまり、次回の更新の時には第一夫人しか滞在が認められなくなるわけです。
そのためNGOには一夫多妻制の妻からの相談が多く、特に、夫人同士で「第一夫人」の座を争うというような事が起きているとのことです。
本国では家族や親戚で支えあって生きていた夫人たちが、フランスにおいては相談する人もなく、突然自らの存在を非合法とされてしまう、ということが起きているわけです。
フランスに限らず移民問題を考えたり(また、自らが難民になった場合を考えたり)するのにも参考になると思います。
※ちなみにイスラム教徒の名誉のために言うと、フランスの移民において一夫多妻制は宗教とはほとんど関係がないそうです。一夫多妻はイスラム教徒の多いマグレブからの移民にはほとんどなく、主にブラックアフリカにみられるもので、宗教(霊魂信教、キリスト教、イスラム教、その他)による偏在もないそうです。
さらに、「イスラームとは何か―その宗教・社会・文化 」 講談社現代新書によれば、イスラム圏で一夫多妻制を取っているのは既婚者の5%未満に過ぎず、一夫多妻制を容認したとされるコーランの個所は
汝らが孤児たちに対し、公正にしてやれそうもないならば、汝らがよいと思う二人、三人、または四人を娶るがよい。
に続いて
だが、公正にしてやれそうにないなら、ただ一人だけ。
とあるそうです。
つまり、「第一、第二・・・」という区別は(イスラム教上は)ないみたいです。
年末年始シリーズ第5弾
これはオーガスティン・バロウズというアメリカの新鋭作家の自伝的小説です。
というよりも、この本が「ニューヨーク・タイムズ」のベストセラーリストに74週連続ランクインして注目を浴びたという方が正しいみたいです。
とにかくまともな人が一人も出てこない話です。
主人公=作者の父親はアル中の大学教師、母親は自分に文学の才能があると思っている精神病者(で同性愛者)。
主人公は両親の離婚と母親の病気再発をきっかけに母親の主治医の家族と同居生活を始めますが、主治医の精神科医もその家族も社会適応度がゼロに近く、さらに養子にした元患者や現患者を治療のために自宅に同居させたりという支離滅裂な生活を送っています。
主人公はこの奇妙な共同生活に巻き込まれたり傍観者になったりしながら、自らの自我を確立していく(ついでに同性愛に目覚めたりもする)という話です。
作者が毎日つけていたという日記(学校にも行かずに自らの存在をかけて毎日3時間かけて書いた)がベースになっているようで、細部にわたっての描写と少年である主人公の心の動きが描かれています。
最初に思い浮かんだのが、野坂昭如だか誰だかが書いていた
「親があっても子は育つ」
子供はどんな環境でも(特に親という成長を阻害する存在がいても)立派に育つ、という言葉です。
主人公が自分と他人と比較して悩んだりしないところにすがすがしさを感じます。
※そういえば「他人との比較で自分の行動を決めない」ことが重要という点は昨日のエントリの「ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則」でも言及されています。
こういうフレーズがあります。
飛躍を遂げた企業は、恐怖によって動かされてはいない。自分たちが理解できないことへの恐怖によって動かされてはいない。馬鹿にされることへの恐怖によって動かされてはいない。他社が大成功を収めるのを指をくわえてみる羽目になることへの恐怖によって動かされてはいない。競争で打撃を受けることへの恐怖によって動かされてはいない。
![]() |
ライブドア紹介の報酬巡り対立 コンサルがリーマン提訴
(2006年 1月 6日 (金) 08:28 朝日新聞)
ライブドアによる05年2月のニッポン放送株買収に絡み、約800億円を資金提供した米投資銀行のリーマン・ブラザーズと、同社をライブドアに紹介した東京都内のコンサルタント会社の間でトラブルになっている。両社は「紹介契約」を結んでおり、コンサルタント会社は「成功したら4億円の紹介料を支払う約束だ」とするが、リーマンは「単に引き合わせてもらっただけ」などと応じていない。
リーマンも払っときゃいいのに、という話です。
800億のMSCBを引き受ける時点でリーマンとしてはリスクと期待利益の算盤勘定の中に4億円を織り込んでいたはずなので、払い渋る必要はないと思うのですが。
仲介報酬については「仲介業者には報酬請求権があるが、請求できる額は契約の成立にどの程度尽力したかによる」というような判例があったと思います。
なのでリーマンの言い分とすれば「紹介だけじゃ満額払えない」というのかもしれませんが、記事を見るかぎりでは「紹介契約」なので、紹介すれば義務を履行したことになる契約なんじゃないでしょうかね(ディールを取ってこれなければ担当はクビ、という世界では融資機会の獲得は生命線なので、そんな契約があってもおかしくないと思います)
そもそもが曖昧な契約で、MSCBの額を見てコンサル会社が分け前に預かろうと食い下がってきた、というなら争う事もあるかもしれませんが、そもそも解釈に疑義のあるような曖昧な契約を法務セクションが通したのか、またもし担当者の一存で契約を結んでいたのか、いずれにしろリーマンの内部統制上の問題も浮き彫りになってしまいますね。
普通に考えると裁判で争ってクライアントに迷惑をかけたり、内幕を公にする意味は全くないと思います。
実は、日本の代表が本国に「だから高いコストをかけて六本木ヒルズに引っ越した甲斐があったろう」などと大見得を切ったところにこの請求書が出てきて、「今さら払えねぇ」とかいうような、理屈以外の人間関係要因が背景にあんじゃないでしょうかというのが僕の勘ぐりですが真実はどーでしょうか?
投資銀行はイメージが大事で、しかもGSやMSほど「名門」でないリーマンがせっかくライブドア問題ではひとり勝ちをして名をあげたのに台無しですね。
早速「だからあそこは・・・」と言われてそうです。
年末年始シリーズ(厳密に言うとクリスマス前後からですが・・・)その4
同じ著者による「ビジョナリー・カンパニー」がベストセラーになったので、そのタイトルを流用していますが、内容的には二番煎じでなく、非常にいい本だと思います。
作者は前作「ビジョナリー・カンパニー」に対する「とりあげられた会社はそもそも偉大な創業者の手になるもので、普通の会社には役に立たない」という指摘を受け、普通の企業から偉大な企業へ飛躍を遂げた会社の研究をしたのが本書です。
そこで明らかになったのは、企業が飛躍を遂げるには、カリスマ的な経営者も従業員を鼓舞するような燦然たる経営ビジョンも大リストラも起死回生のM&Aも画期的な新技術も必要なく、飛躍した企業に共通している点は、謙虚で意志の強い経営者が適切な人材とともに確固たる信念を持って地に足のついた努力を積み重ねる、ということだった
と、かいつまんで書いてしまうとあたりまえのような話なのですが、それを具体的な事案やエピソード、特に、同業で「偉大になれなかった企業」との比較により、説得力をもって描かれています。
また、今までビジネススクールや経営コンサルタントによって提唱されてきた経営理論は捨て去って、まっとうに地道に経営すればいいんだ、という(新書版粗製濫造経営書のような)精神論・抽象論と違い、本書は成功の要因の厳密な分析と定義がなされていて、実践の指針としても参考になります。
日本では経営書にこういう理論的にしっかりしてしかもわかりやすい著作が少ないのは、経営学やビジネススクールの学者がちょっと有名になるとマスコミが手っ取り早いビジネス本や評論をいっぱい書かせて消費してしまうからでしょうか。
最後に本書から、内容には直接関係はないですが気に入ったひとこと
「ビジネスでも人生でも、完全な失敗以外でもっとも危険なのは、成功を収めているが、なぜ成功したのかが分かっていない状態だ」
![]() |
*****************
(1/7)
ちょっと関連するエントリをこちらに追加しました
(1/8)
さらにこちらにも追加しました。
満州国で阿片の専売権を与えられ「阿片王」と異名をとった日本人里見甫についてのノンフィクションです。
ただ、いかんせん60年以上前の満州国のことで、記録もほとんど残っていない中で、里見の遺児基金名簿を手がかりに関係者を探してインタビューして「阿片王 里見甫」の実態を明らかにしようとした労作です。
労作ではありますが、結局全貌どころか満州国での阿片の流通の実態やそこで動いた金という話は明らかにならず、里見の生活や里見に影のように付き添っていた「男装の麗人」の行方と生い立ちにかなりの部分が割かれています。
そして、文章も「魔都上海の闇の奥で冷たい笑みを浮かべる里見の姿が浮かんでくるようだった」という調子の、思い入れたっぷりな叙情的フレーズが多く見られる反面、肝心の思い入れの対象となる里見甫の実態なり作者が理解した実像が浮かび上がってこないので、残念ながら読者としては感情移入ができずに、かえって違和感を感じてしまいました。
テーマとしては非常に面白いと思うだけに、また、周辺のさまざまな登場人物の関係には新たに知った部分も多いだけに、残念です。
こうやって、過去は埋もれてしまうのでしょうか。
でも、たった60年前のことなので、また別のリサーチや切り口を切り開く作家(本書の著者である佐野眞一氏でももちろんいいですが)を期待したいです。
PS 帯の「構想十年、満州の歴史を書き換える凄絶な人間喜劇!」というキャッチフレーズは誇大広告です。それに日本語になってないし・・・
![]() |
(2006年 1月 3日 (火) 03:32産経新聞)
年末年始の注目の話題のひとつでしたが、週刊文春の年末号の記事をきっかけにした国民の批判をかわし、アピールするための抗議じゃないかと思います。
なにしろ2004年の事件以降遺族の意向に配慮して水面下で4回抗議していた、というのであれば、今さら急に公式に抗議するのはマスコミ対策以外の何ものでもないでしょう(遺族への配慮はもういいのか?)
※ ニュースの少ない正月にぶつけてアピールして、関心が去ったらフェードアウトするとしたら、それこそ遺族は浮かばれません。
また、そもそも中国情報機関の活動だとしたら中国側は絶対に認めるはずがない(決定的証拠があればとっくに出しているはず)ので、議論は平行線になるしかないのですから。
ところでそもそも外務省職員は何で自殺までしたのでしょうか。そこが僕にはよくわかりません。
外交官として少なくとも身の安全は保証されているので、暴露されたとしても家庭が壊れるくらいの話です。それが怖くて自殺するくらいなら(あえて中国国内で)誘いに乗らなければいいわけで、少なくとも外交機密を預かる人間としての自覚に欠けるように思います。
それとも、外務省の中での極端な減点主義があってキャリアの終わりを悲観したとか?
またはひょっとして、フーバーFBI長官が女装プレイの写真をネタにマフィアに脅迫されていたように、社会的地位を失うくらいの弱みを握られていたのでしょうか?
※そう考えると既に「変態」として認知されている山拓は強いですねw
※もうひとつ余談ですが、民間人が同様な目にあったら、単に「身から出たサビ」と言われて終わりのような気がするのですが・・・
どうも日中間の議論というのは、外交論争というより国内向けのアピールという色合いのものが多すぎるような感じがします。かなり以前のエントリに書いたのですが靖国問題への中国の反応なんかもそうじゃないかと思います(もっとも靖国参拝について僕自身は両手を上げて賛成ではないのですが)
政権の国内向けのアピールのために国民感情を煽るのはお互いにやめたほうがいいと思います。
問題解決に向けての冷静で建設的な議論をできる素地をつくるのが外交なんじゃないか、というのは素人の理想論なのかしら。
それに、中国に抗議するなら、まずは尖閣諸島で中国が行っている天然ガス開発でしょう。
領事館員問題でここまでがんばるのであれば、これについては、もっと継続的かつ徹底的に(少なくとも中国の靖国参拝批判以上には)抗議すべきだと思います。
また、陣取り合戦だけじゃ大人気ないとしたら、国際社会を巻き込んで大陸棚の地下資源の所有問題の議論をする必要もあるんじゃないでしょうか
※ もし水面下で日本が資金供与をしての共同開発の話でも進めているのならお見事ですが
まず幸村誠の「プラネテス」というコミック(全4冊)を読んで、面白かったのでグっグてみたらコミックを原作にしたアニメも評判がよかったのでDVDを借りたところこれも面白く、全9巻をレンタルして一気観(?)してしまいました。
舞台は2075年、石油資源に限界を感じた人類は宇宙開発により月にあるヘリウムの核融合によるエネルギーをメインにしている時代、主人公は地球軌道上に浮遊している廃宇宙船などのゴミ(デブリ)回収に従事しながら、人類初の木星探査船の乗組員を目指す、という話です。
最初、絵的には好きでない(三白眼のキャラが多く、表情がうまく描けてない)ので途中で飽きるかと思ったのですが、予想以上に面白く、最後まで読んでしまいました。。
作者は相当な遅筆のようで、週刊誌の連載にもかかわらず1巻5話分で1年以上かかっており、3巻目の最後からは月刊誌に配置換えにされたみたいです。
その分一話一話の中身が濃く、また、1巻目の途中から画ががらっと変わって登場人物の表情が豊かになり、メカや動作の描写も上手くなっています。
ストーリー的には「冒険モノ」でなく「宇宙と向き合ったときの人間」「人類の宇宙開発の光と影」というようなかなり重量感のあるテーマを正面から取り上げています。
それも、確かに遅筆も仕方ないと思わせる密度の濃い一話一話で、一気に読了してしまいました。
人によっては重すぎて敬遠するかもしれないくらいです。
一方、アニメも基本的な問題意識は持ちながら、脇役を増やし、サイドストーリーを充実させて見やすいものになっています。
アニメの「お約束」風なところがちょっとあるのは仕方ないとして、原作のエピソードを順序や登場人物をうまくアレンジしながら生かして、全体のストーリーとしての統一性、わかりやすさを出しています。
最初から全26話を見通してきちんと作った脚本じゃないかと思います。
当然世界に誇る日本のアニメだけあって、画はきれいだし、メカや登場人物やそれらの動きも上手く描けていることは当然の前提なので、脚本とテーマのまっとうさとあいまって、大人も楽しめる作品だと思います。
アニメに抵抗感のない方はお奨めです。
こちらが原作のコミック
![]() |
こちらがアニメ
(カワイ子ちゃんキャラが前面に出ていて一瞬ひるみますが、めげずに借りてみてください)
![]() |
(ちなみに2巻は主人公が表紙です)
![]() |
もともとソン・ガンホはコミカルな役柄もシリアスな役柄も(それもカッコイイから"Dark Side of the Force"系まで)芸の幅が広くて存在感があるので好きな俳優なのですが、これも好演してます。
舞台は1960年代から70年代にかけての韓国で、ひょんな事から大統領の理容師になってしまった普通の床屋のオヤジが主人公の話です。(公式サイトはこちら)
細かい話はネタバレになってしまうので言いませんが、ちょうど今やっている「三丁目の夕日」と似たような時代背景の映画です(まだ観ていないんですが・・・)。
韓国のほうがもうちょっと貧しくて(当然の事ながら当事者だったので「朝鮮戦争特需」がなかった)、厳しくて(朝鮮戦争や徴兵制・ベトナム出兵など)、理不尽(軍事政権下)だったのですが、登場人物が底抜けに素直なところ、喜怒哀楽はあるが閉塞感がなかったところ--多分自分たちの生活に精一杯だったからなんでしょう--が共通している
のかもしれません。
そのころの時代背景を、批判的かつ暖かいユーモアで包んでいて決して安易な「泣かせ」に走らない脚本も秀逸です。
PS これを観て「三丁目の夕日」が単なるノスタルジー映画だったら許さんと思ってます。
![]() | 大統領の理髪師ビデオメーカーこのアイテムの詳細を見る |