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玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ロデリック・ハドソン』(4)

2021年12月30日 | 読書ノート

 さて、話はクリスチーナ・ライトのことに移らなければならない。この女性の一見自由奔放に見えながら、実は母親の虚栄のためにがんじがらめにされているというあり方は、『鳩の翼』のケイト・クロイが置かれた情況によく似ている。クリスチーナは母のライト夫人が望む良縁を受け入れざるを得ない立場に置かれている。ライト夫人が借金をしてでもそのために費やしたお金は膨大なものに登り、クリスチーナは財産のある男と結婚しなければ、母の借金を返済することができないからだ。

『鳩の翼』のケイトもまた、叔母のラウダー夫人に支配されている。夫人は、ケイトの恋人デンシャーと彼女との結婚を、彼に財産がまるでないが故に受け入れることができない。さらに、ケイトには零落した父と姉がおり、彼らの窮状を救うためにも財産のある男と結婚しなければならないのである。そのためにアメリカから来た財閥の娘であり、不治の病に冒されたミリー・シールの遺産を狙うという策略が、二人の間の悲劇の発端となるのである。

 ケイトも活発で奔放な女性であるが、クリスチーナもそれに輪をかけて自由奔放で、主人公ロデリック・ハドソンは、そんな女性に入れあげて芸術家としての才能を失い、最後は自殺を遂げることになる。クリスチーナの、母親とロデリックとの間で引き裂かれた苦しい情況というものはよく分かるのだが、ハドソンに希望をもたせるのは自分の立場を考えた場合、許されないことであり、彼の自殺は直接的にはマレットの指弾によるものではあれ、かなりの部分彼女にも責任がある。

 クリスチーナは謎めいた女性として描かれていて、ドストエフスキーの『白痴』のナスターシャを思わせる。しかし、『白痴』がナスターシャのロゴージンとムイシュキンの間で引き裂かれた愛情を、うまく描いている(わざと詳しく描かないことにおいても、迫真の造形と言える)のに対して、『ロデリック・ハドソン』はクリスチーナの激しい葛藤を十分に描いていない。

 だから、単に移り気で、男性を振り回すだけの女性のように見えてしまう。そうすると、ハドソンのクリスチーナに対する愛の宿命的な性格が見えてこないために、一編は運命的な悲劇としての重量を失ってしまうのである。ここにこの作品の欠陥があり、その理由はジェイムズが若い女性の視点というものを獲得できなかったことに帰せられるであろう。

 ところでジェイムズはこの女性を、12年後の1886年に刊行された『カサマシマ公爵夫人』に再び登場させている。これはバルザックが創始した〝人物再登場法〟といわれる方法によっているが、なぜそんなことをしたかと言えば、やはりこの女性を『ロデリック・ハドソン』において、十分に描くことができなかったことへの反省によるものだろう。

『ロデリック・ハドソン』で、結局はカサマシマ公爵との結婚を受け入れざるを得なかったクリスチーナは『カサマシマ公爵夫人』では未亡人となって登場し、ロンドンの革命運動を支援するパトロンのような役割を果たす。しかし、再び自由になったクリスチーナが主体的に行動できているかというと、そうではない。

 彼女は主人公ハイアシンス・ロビンソンの周辺に出没する、金持ちで物好きな未亡人としか見えない。この小説におけるロビンソンの、マルクス主義革命運動とヨーロッパの伝統文化に対する崇敬の念に引き裂かれた苦悩は、よく描かれていると思うが、カサマシマ夫人の方はさっぱりである。

 だからジェイムズがこの小説に、『ロデリック・ハドソン』に倣って『ハイアシンス・ロビンソン』というタイトルを与えなかったことが不思議でならない。なぜジェイムズは『カサマシマ公爵夫人』などというタイトルを付けたのだろう(だいいち、このタイトルでは読者の誰もがカサマシマ公爵夫人を主人公だと思ってしまうだろう。読んでびっくり、夫人はいつまで経っても中心的行動を起こすことなく、ロビンソンこそが主人公だと判明するのだ)。それもやはり再生したクリスチーナをもう一度描いてみたいという願望に、その理由があったのではないかというのが私の推測である。

 いずれにせよジェイムズは、『ロデリック・ハドソン』の6年後、『ある貴婦人の肖像』を書いて、女性の心理を描き尽くすことができたのだし、女性体験もないのに、これだけ女性を生き生きと描いた作家は、ジェイムズの他には見当たらないのである。

 



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