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玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『谷間の百合』(2)

2020年01月29日 | 読書ノート

 このような描写を長々と引用したのは、こうした微に入り細を穿った長い描写が、バルザックという作家の一番の特徴と言えるからだ。『谷間の百合』はフェリックスとモルソーフ夫人のプラトニックな愛、と言ってもフェリックスの方はその肉体への愛を懇願し、モルソーフ夫人の方はそれをかたくなに拒絶するという関係を、さしたる大きなドラマもないまま描ききった作品である。

 バルザックの作品はそこに激動に満ちた起伏がそれほどあるわけでないにも拘わらず、いずれも途方もなく長い。それは彼が多額の借金に追いまくられて小説を書いていたという物理的条件に起因する部分もあったかもしれないが、本質的な問題はそこにはない。そこにあるのは描写に対する飽くことなき欲求であり、描くべき対象を描き尽くさずにはおかないという執念である。

 描写ばかりでなく、たとえば『絶対の探究』冒頭に見たような背景説明、およそ不必要なくらいくどくどと続くあの準備作業もまた、バルザックの同様な欲求から生まれてくる。これを〝退屈〟と受け取る性急な読者も多いだろう。しかし、バルザックの小説におけるドラマや、ストーリーの起伏はこの過剰な描写から生まれてくるのであって、それを読みきらなければバルザックを読んだことにはならない。

 ためしにフローベールの『感情教育』冒頭のフレデリックとアルヌー夫人との出会いの場面と、『谷間の百合』のフェリックスとモルソーフ夫人との出会いとを比べてみれば、フローベールが描写というものにさほどの信を置かず、バルザックがそれに絶対の信頼を寄せていたことが見て取れるだろう。

 また『谷間の百合』は一人称書簡体小説であり、読みとおすのに二日も三日もかかるような書簡というものが第一にあり得ない。この小説を長くしているのは、フェリックスの熱情表白への執念ではなく、作者の描写への執念なのである。

 たとえば書簡内書簡というべき、モルソーフ夫人がフェリックスに宛てた手紙などは東京創元社版全集で、延々と16頁も続くのであり、フェリックスの夫人への想いは何度も何度も数頁にわたって繰り返されるのである。この不必要なほどの描写、それによって長大なものになっていく小説という特徴は、バルザックの『人間喜劇』への登攀を困難なものにしているかもしれないが、逆にそれを登破した時の読者の喜びを約束してくれる大きな美点でもある。

 このように不必要なほど長い小説というものを、文学史上に見つけようとするなら、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』ということになるだろうが、私はそれを読んでいないので比較することができない。私に例示できるのはバルザックを小説の師と仰いだヘンリー・ジェイムズくらいなものである。

 ヘンリー・ジェイムズが背景説明や情景描写など一切行わず、いわゆる心理描写を延々と続けていく姿は、描写の対象は違っていてもバルザックの影響ということを考えないわけにはいかない。ヘンリー・ジェイムズの場合には心理描写や心理分析が彼の小説を成立させる根本的な条件であったのと同じように、バルザックの場合には情景描写や背景説明、熱情表白といったものが、彼の小説を成立させる基本的な条件だったのである。

 では、フェリックスがモルソーフ夫人との美しくも幸福な日々を、回顧する場面を引用してみよう。こんな文章が数頁にわたって続いていく。

「この五十日間とそれに続く一カ月とは、私の生涯のもっともすばらしい時期でした。愛が魂の無限の空間のなかに占める位置は、あたかも美しい谷間を流れる大河のようなものではないでしょうか? 雨も小川も谷川もことごとくそこへ流れこみ、樹も花も、岸の小石ももっとも高くそびえる岩塊もことごとくそこに落ちこむ、そういう大河のようなものではないでしょうか? それは暴風雨によって大きくなって行くと同様に、また清らかな泉の緩慢な貢ぎものによって大きくなって行くのです。まったく、愛している時は、何もかも結局は愛ということに結びつきます。最初のもっとも危険な時期が過ぎると、夫人と私はすっかり病気になれてしまいました。……」

 

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