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玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ギュスターヴ・フローベール『感情教育』(5)

2020年01月29日 | 読書ノート

 この小説には二つの回顧の場面がある。1867年のアルヌー夫人との再会の場面と、その数年後と思われるデローリエとの和解と再会の場面である。1848年の二月革命からはおよそ20年の歳月を経ているから、彼らはすでに中年時代に差し掛かっていることになる。なぜフローベールがフレデリックとアルヌー夫人を再会させたのか、そしてなぜフレデリックをデローリエと和解させたのか、私は理解に苦しむのである。

 アルヌー夫人もまた20年の歳月を経て、白髪交じりとなり、フレデリックとの愛を懐かしみ、それを美化して語る年齢になったのである。フレデリックとロザネットとの関係に嫉妬し、あれほどフレデリックの誠実を疑っていた女が、すべてを赦し、フレデリックの愛を信じて疑わないというのはいくらなんでも不自然ではないか。次のようなアルヌー夫人の言葉を私は聞きたくないし、作者は夫人にこんなことを言わせるべきではないと思う。

「あなたのおっしゃったことが、遠いこだまのように、風にはこばれてくる教会の鐘の音のように、私の耳によみがえってくることがあります。本のなかで恋愛の場目を読んでいると、あなたがすぐそばにいるような気がしてくるの」

 その時どうだったにせよ、遠く過ぎ去った愛はかぎりなく美しい、すべての不信も疑念も歳月が消し去ってくれるというならそれもいいだろう。しかし、アルヌー夫人はともかく、フレデリックの人間としての卑小はどうなるのだろう。それは読者にとって決して解消されない汚点であり、もしそれをアルヌー夫人が浄化するというのであれば、そこには大きな詐術がある。それはアルヌー夫人の詐術と言うよりも、作者フロ-ベールの詐術であって、それがこの小説を台無しにしている大きな要因である。

 一方フレデリックを裏切ったデローリエとの和解についても、なぜそこに至ったのかが示されることはなく、すべては20年という歳月のせいにされてしまうのである。デローリエと結婚したルイーズがある歌手と駆け落ちしたというようなことが語られているが、それはルイーズという女の卑小を示すものではあっても、デローリエの誠実を意味するものではない。

 二人は昔日の確執を忘れたかのように再会を喜び合い、幼なじみとしての思い出話にふけるのである。彼らは少年時代に家を抜け出して、トルコ女の娼窟に忍び込んだことを想い出す。そのことを語り合った後で、二人は次のように言う。

「「ぼくらにとって、あのころがいちばんよかった」フレデリックが言った。

「ああ、そうかもしれん。いちばんよかったな、あのころが」デローリエは言った。」

というところで『感情教育』一編は終わりを告げてしまう。歳月が過去の汚辱を浄化してくれるというのは、アルヌー夫人の場合と同じ構図であって、男女の愛も、男同士の友情も、見境もなく同じ扱いを受けている。

 汚辱というのはトルコ女のところに忍び込んだことを言っているのではない。その後の二人の生き方のことを言っている。それが少年時代の無垢な心情によって免責されてしまうようなことがあってはならない。昔を懐かしんでそれで終わりというのでは、あまりに安易で、お粗末としか言いようがない。

 これもまた責任はフレデリックとデローリエのあるのではなく、作者フローベールにある。このラストシーンは二人の不行跡を見届けてきた読者にとって、到底受け入れられるものではない。

 文豪フローベールはいったいどうしてしまったのだ? ということで私はフローベールと交流のあった、ヘンリー・ジェイムズが彼の作品を論じた文章があったことを思い出し、それを読んでみることにしたのだった。

 

 


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