玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『「絶対」の探求』(2)

2019年07月10日 | 読書ノート

 ところでこの小説は主人公バルタザール・クラウスが、最愛の妻や子供達のことを一切顧みることなく、ダイアモンドを人工的に生成しようという実験にうつつを抜かして、財産を蕩尽する物語である。バルタザールは自身の破産、家族の破産にもめげることなく、一切を犠牲にして実験を続ける。

 お話はこのことに尽きていて、破産に瀕してどうやってお金をつくるか、あるいは献身的な妻ジョゼフィーヌがどうやって財産を守るかといった部分は、付随的な物語に過ぎない。まさか献身的な妻の美徳を賞讃するための小説ではあるまい。

 とにかくバルタザールの「絶対」の探求は狂気じみていて、留まるところを知らない。家族を犠牲にしてしまうことへの自責の念から、バルタザールは何度も実験から足を洗おうとするのだが、金ができさえすれば元の木阿弥である。

 この小説を読んでいて思い出すのはドストエフスキーの『賭博者』である。『賭博者』の主人公もまた、何度も反省を繰り返しながら賭博の泥沼にはまっていく。バルタザールの目的はもっと高尚なものだと言われるかも知れないが、決してそんなことはない。まったく賭博に溺れる人間と同一の人物像である。

 ただし賭博の場合には、ごく稀にではあれ勝って大金を手にすることがある。そのことがさらに賭博へののめり込みを深めていく。しかしバルタザールの実験は勝つことなど全くなく、敗北の連続である。それにも拘わらずバルタザールは「絶対」の探求に生涯を賭していく。

 だからドストエフスキーの『賭博者』よりも、バルザックのバルタザールの方が狂気が深い。バルタザールは勝利にこの上なく接近したと思いこむことはあっても、勝利することはないし、最後まで財産を蕩尽し続け、大金を手にすることなど一度もないのである。死の床でバルタザールはEUREKA!と叫ぶが、その時はもう手遅れである。

 確かにバルタザールの実験の価値を、あるいは人間としてのバルタザールの常識では測れない価値を理解しつつ、財産を守り抜く賢妻ジョゼフィーヌは立派であるかもしれないが、また読者としてはバルタザールに「早く実験なんかやめてしまえ!」と言いたくなる瞬間もあるかもしれないが、最終的な共感はジョゼフィーヌではなく、バルタザールに向かうのである。

 バルザックの仕掛けは完璧で、なおかつ執拗極まりない。ジョゼフィーヌの死後にも、ちゃんと長女マルグリットを残しておいて、父バルタザールの庇護者としているところなど、これでもかというくらいに徹底している。結局、ジョゼフィーヌもマルグリットもバルタザールの理解者なのであって、読者もまた彼の度を超えた探求への共感を強いられるのである。

 また失敗に次ぐ失敗の中で、それでも次から次へと資金を産み出していくその過程も、執拗に描かれていく。屋敷や農園を抵当に入れ、家具調度を売り、宝石を売り、あらゆるものを売り払って資金を調達する(というか、実験で背負った借金の埋め合わせをする)。

 それもみなダイアモンドを化学的に生成して大金を得るためなのだが、しまいにはそんな目的が目に見えなくなっていって、ひたすらな探求と蕩尽の過程しか見えなくなってしまう。バルザックが描きたかったのはそれ以外のものではない。

 リアリズム文学の19世紀における代表のように言われるバルザックも、このような行き過ぎた情熱に囚われた人間をたくさん描いていて、そこは彼のロマンティックな部分とも言われるが、むしろバルザックのロマンティシズムがリアリズム的な技法を必要としたのだと言えないこともない。いずれにせよバルザックを単にリアリズムの作家と呼ぶことには無理がある。

 バルザックは『従妹ベット』において、バルタザールの血縁とも言うべきユロ男爵を登場させ、彼に「絶対」の探求ならぬ女性への探求と、財産の蕩尽を行わせている。ユロ男爵もまた手の付けられないほどの求道者であって、対象がダイアモンドではなく女色であるという違いしかない。

『従妹ベット』はしかし、複雑に人間模様が絡み合っていて、探求と蕩尽のテーマが純粋に追究されているとは言い難い。テーマの純粋さにおいて『「絶対」の探求』に勝る作品はおそらくない。

(この項おわり)


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