玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(8)

2019年01月17日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』②
 私が訪れたパリのノートル=ダム大聖堂は街のど真ん中に建てられていた。パリ発祥の地がシテ島だとすれば、それは旧パリのど真ん中でもあった。日本の寺院が山の奥深くだったり、山頂だったりに建てられているのとは違うようだ。また他の大聖堂の写真を見ても、どこの大聖堂もごみごみした街のなかに建てられていて、一見窮屈そうに見える。
 人里離れたところに造られたのは、修道院などの宗教施設であって、大聖堂はもともと都市の中心に建てられてこそ意義のあるものであったのだ。だから都市の発展とともに大聖堂周辺が開発されていったのではなく、初めから街の雑踏のなかにあったのである。

シャルトル大聖堂もこんな感じの立地である

 酒井の本から教えられることは多い。ローマのキリスト教がヨーロッパ各地に布教され民衆を教化していくには相当の時間がかかったのだということも見えてくる。またキリスト教が民衆信仰を取り込んでそれを同化せしめていく過程もよく分かる。ゴシックの時代とはそういう時代であったのであり、そこで果たしたゴシック大聖堂の役割は限りなく大きい。
 酒井は先の引用文で「食いぶちを求める者たちが、異教の自然信仰をかかえながら、次々に移り住んできた」と書いているが、異教徒の彼らをキリスト教へと教化するのがゴシック大聖堂の使命であった。また教化のためにキリスト教が、彼らの自然信仰を取り込まざるを得なかったことも納得がいく。もともと父権的な一神教であるキリスト教が聖母信仰を許したことも、教化のための妥協の産物であったのである。
《最後の審判》におけるキリストのイメージは、強権的で恐ろしいものであっただろう。当時の庶民にはそんなキリストを迂回して、聖母マリアに救いへの取りなしを求めたのである。そう考えればゴシック大聖堂のほとんどが聖母に捧げられた〝ノートル=ダム〟であったのも当然の成り行きだったと言える。
 酒井健はここから聖性と供犠という極めてバタイユ的なテーマに入っていく。二つの聖性ということを酒井は言う。それは「不浄で不吉な聖性が左極、清純で吉なる聖性が右極」というふうに語られるが、左の聖性は畏怖させる破壊的聖性、右の聖性は救済や復活の聖性と言える。
 これが供犠についての二つの解釈と結びついてくる。供犠とは「共同体にとって最も大切な物体(人間であることもある)神に犠牲として捧げて、神との関係を良好にし神から物的な御利益を得ることを目指す行為」とされるが、バタイユの解釈は違う。
 バタイユは「犠牲が滅ぼされるさなかに左極の聖性が出現する」と考えた。バタイユは〝聖なるもの〟を「引き裂かれて痙攣状態にある者たちの情動的な、そして瞬間的なコミュニケーション」と定義づける。つまり聖性のまっただ中に畏怖に満ちた破壊性が啓示のように出現すると言えばよいか、それはバタイユのエロティシズムの概念にもつながるものであって、重要なポイントである。
 酒井はそのことの例証として当時の民衆の聖体信仰熱や、犠牲者として苦悩するキリストを描く当時の磔刑図などを挙げている。またパリのノートル=ダムのあのガーゴイルや怪物達もその例証として登場するが、バタイユを持ち出すまでもなく、それらが原始信仰や異教的な信仰に結びついていることはたやすく推測できる。
 つまりそれらの聖性はグロテスクで、呪術的で、供犠的なアニミズムに発していることは明らかである。ゴシック大聖堂はそうしたものを受け入れる懐の深さを持っていたというか、受け入れざるを得なかったとも言えるのである。これが酒井のゴシック大聖堂の精神史に対する評価の基軸である。
 ただここで、バタイユの言っていることが正しいのかどうかということは私には分からないし、おそらく誰にも分からないだろうということを言っておきたい。中世の人間の精神を直接体験することができないからだ。私にはそれがある種の転倒のように思われるし、そうした転倒は近代の精神史の中で発生したのではないかと思うからだ。だが、このテーマは論ずるにはまだ早すぎる。
 私にはそれよりパリのガーゴイルや怪物達のことが気になるのである。それが左極の聖性にあるのではなく、グロテスクへの本源的な指向性によってあるように思う。無神論者である私のなかに左極の聖性のようなものを見出し得ないからである。ただし、無神論的聖性というようなものを想定すれば、話は別であるが……。
 ガーゴイルや怪物達のことについては、酒井がフランスにおけるゴシック・リヴァイヴァルについて触れるときに立ち返る。