玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(1)

2019年01月09日 | ゴシック論

●ノートル=ダム・ド・パリ①
 これまでのゴシック論はゴシック小説としてのゴシック、つまりはイギリスにおけるゴシック・リヴァイヴァルのきっかけとなった、ホレース・ウォルポールの『オトラント城奇譚』に始まる小説のジャンルをめぐって書いてきた。時代は18世紀後半以降ということになる。
 これから書こうとしているのは建築としてのゴシックで、これがゴシックの本来の意味であり、時代的にはヨーロッパ中世後期、12世紀から15世紀にわたる期間である。
 これまでケネス・クラークの『ゴシック・リヴァイヴァル』についてほんの少し触れただけで、建築のことをテーマにしなかったのは、もともと私がそれほど建築に興味がなかったことと、本物のゴシック建築を見たことがなかった(私は昨年までヨーロッパに行ったことがなかった)からであり、興味の対象が文学としてのゴシックに限定されていたからである。
 昨年11月9日から20日の日程でパリに旅行したが、目的は三つあった。一つはアメリカのブルース・シンガー、ベス・ハートのコンサートを聴くこと、もう一つはパリのノートル=ダム大聖堂を訪れて、塔の回廊に並んでいるというキマイラ達(フランス語でシメールChimere)に会うこと、三つ目はパリに多く残るパサージュ(今で言うアーケード街)を歩いて、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』について考えることであった。
 最後の目的はパリ初日からものの見事に崩壊した。私が宿泊したオペラ座近くのホテル周辺に古いパサージュはいくつか残されていたのだが、あまりに綺麗で近代化されており、ベンヤミンが亡命のようにしてパリに滞在していた頃に訪れたパサージュのイメージが、ほとんど感じられなかったのがその原因の一つであった。


Passage des Panoramas

 ちょっとパリを訪問しただけの私にはとても、パサージュを思索の手がかりにして都市論や歴史論を展開するような力があるはずもなかったのである。パサージュは極めて居心地のいい場所で、今日ではおしゃれな買い物スポットでしかなかった。
ひとつ目の目標については十分に達成し、このブログの「日記」に長々とマニアックに書いた。二つ目のノートル=ダムについては建物そのものよりも、キマイラ達とりわけ銅版画家シャルル・メリヨンが描いた〈吸血鬼〉が昔から大好きで、このブログのプロフィールに使っていることもあり、そちらの方を見たかったというのが本音であった。
 まずパリのノートル=ダム大聖堂訪問について書かなければならない。それが私の建築に対する無関心の蒙を啓いてくれたからである。帰ってからヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』を含めて、様々な本を読み知識を得ると同時に、いろいろと考えさせられた。
 ノートル=ダム訪問記はだから、事後的な知識を含めて書かざるを得ないし、そうすることで建築だけでなく文学や思想についての思索につなげていくことができるのではないかと思っている。

その日11月14日は晴天で、11月とは思えぬくらい気温も高かった。午前中ルーブル美術館を見学し、午後からノートル=ダムに足を伸ばし、夕刻にノートル=ダム大聖堂の近くにあるサント・シャペル礼拝堂前で友人夫妻と待ち合わせをするという予定を立てた。

ルーブル美術館の外観


 ルーブル美術館の印象は薄い。あれだけ膨大な美術品を駆け足で廻って見たところで、深く鑑賞などできようはずもない。私は3時間かけて廻ったが、印象に残っているのは18世紀の画家ユベール・ロベールの15点ほどの作品に過ぎない。
 ユベール・ロベールは想像の廃墟ばかりを描いた画家で、ルーブルのグランド・ギャラリー(ここにはイタリアの宗教画ばかりが無数にあって食傷気味だった)の天井からの自然採光は彼のアイディアだったという。ロベールがルーブルのグランド・ギャラリーを描いた二つの作品があって、一枚は完成予想図のようなもの、もう一枚は時代が経って廃墟と化したルーブルの同じ場所を描いた作品である。芸術の永遠性をテーマにしていると言われているが、どうしてもルーブルを廃墟にしてみたかったのだろう。廃墟を描いて彼は確信犯だったのである。

 

グランド・ギャラリーの完成予想図と廃墟図(ピンぼけですが)