玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(9)

2019年01月19日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』③
 人は歴史遺産としての巨大な建造物を前にして、そこに大きな権威というか権力を読み取ってしまうものだ。私は北京で万里の長城に登ったときに、そこにどんな美しさも感じなかったが、当時の皇帝の恐るべき権力の姿を感じ取って暗澹たる思いがしたことを覚えている。
 万里の長城は言ってみれば狂気の沙汰であって、このような実効性のないものにどれだけの資材と人員を注ぎ込み、民衆にどれだけの責苦を与えたかということにまず思いを馳せてしまう。そこには権力の狂気があり、そういうものがかつて歴史上存在したということを感得するためだけでも、ここに来てこの場所に立ってみる必要があると思った。
 紫禁城でも同じことを考えた。あの巨大な宮殿はどこも美しくなどなくて、強大な権力の腐臭がするだけの代物だった。現在世界的な観光地となっているところは、エジプトのピラミッドを初め、そうした権力の象徴として見られる必然性を持っている。
 私が昨年の11月14日に訪れたヴェルサイユ宮殿はまさにそうした所で、フランス国王一族だけがいくつもの村にも相当するほどの広大な土地を所有し、そこに贅を尽くした建物を建て、内部には華美な装飾を施し、絵画や彫刻などで埋め尽くしている。ヴェルサイユ宮殿もまた少しも美しくなどなくて、私は権力の巨大な悪趣味を感じただけであった。「こんなことをやっていれば、ギロチンにかけられるのも当然だろうが!!」と、ルイ16世とマリー・アントワネットに言ってやりたかった。

ヴェルサイユ=虚飾の宮殿

 ところでゴシックの巨大聖堂はどうだったのか。それもまた司教とそれを支配する国王の権力の生み出したものではなかったのか。酒井健は一応そこのところにも触れているが、必ずしも十分とは言えない。ゴシック建築に対する愛着が強すぎるのだ。
 酒井は国王の立場から、ゴシック大聖堂の建立の契機を見ている。12世紀初めのルイ7世は領土喪失と第2回十字軍の失敗などで、権威失墜のどん底にあったが、そこからの巻き返しとして司教座都市に介入し、威信回復のための一環としてゴシック大聖堂の建設支援を行ったのだった。また多くは王侯貴族と姻戚関係にあった高位聖職者達もまた、自らの威信を高めようとゴシック大聖堂の建設に精力を注ぐことになった。
 これが司教間の競争心に火を付けて、ゴシック大聖堂は各地で盛んに着工され、その天井の高さと豪奢を競い合った。酒井が最初に訪れたボーヴェの大聖堂などは天井が高すぎて、建築後に崩落の憂き目にあっているほどだ。
 ゴシック大聖堂は天井の光に至るための信仰に捧げられているはずのものだが、天井の光はしかし、地上の光、物的な光によってしか到達できるものではなかった。それは民衆の信仰に奉仕するだけではなく、高位聖職者達の虚栄心に奉仕するものでもあった。この章の最後に酒井は次のように書いている。

「ゴシック大聖堂の本質は、節度や均整、安定性や合理性にこだわらず、ひたすら、よりいっそうの高さをめざしていたところにある。ゴシック大聖堂が感動的であるのは、この物質的なカリスマ性にある。キリスト教の教義による意味づけは、この感動においては、副次的な要因にすぎない。それはちょうどバッハの「ロ短調ミサ曲」が、聖書の物語性を超えて、作曲者自身の宗教的意図をも超えて、世界の多くの人々を感動させているのと同じことである。」

 私は酒井のこの言い訳にも似たゴシック賛歌に違和感を覚えないわけにはいかない。ゴシック大聖堂の聖性と「ロ短調ミサ曲」の聖性は同じではない。前者は世俗的権力と宗教的権力による共同作業であり、建築という集団作業でもある。しかしバッハの宗教曲は彼の精神に根ざした個としての作品表現である。また音楽の方がどう考えても物的な要素は圧倒的に少ない。
 バッハに関して私は酒井の言う通りだと思うが、ゴシック大聖堂に関してはいかにそれに魅せられていても、手放しで礼賛することができない。確かにゴシック大聖堂でもバッハでもキリスト教の教義は、私にとっても副次的なものに過ぎないが、ゴシック大聖堂においてより宗教的な聖堂内部のイコンの氾濫に私は馴染むことができない。ちなみにミサ曲を作曲してはいるが、バッハはカトリックの信徒ではなかった。

コメント
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