玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『メイジーの知ったこと』(6)

2018年01月31日 | 読書ノート

 ヘンリー・ジェイムズは「ミューヨーク版序文」の中で、「この少女との交わりが生む魔術的効果」ということを言っている。登場人物たちがそれぞれ勝手に不道徳な行為にふけっていても、メイジーとの関わりの中で彼らは変貌していく。
 特に母親のアイダが、娘に対して寛容の姿勢を見せ、金銭的な援助をし、小説の最後にはウィックス夫人と一緒にメイジーを引き取ることになるという変化は、ひとえにメイジーの〝知る〟という行為によってもたらされるものに違いない。
 ところでヘンリー・ジェイムズは「序文」の中で、次のようにも書いている。

「(わが主人公の魅力とは)この主人公の生来の本質となっているある強さ、ある持続的な抵抗力である。抵抗し抜くこと(つまり見聞と経験の攻撃に耐えること)とは、こんな年若い者にとっては、ただ瑞々しく、なお一層瑞々しくあり続けること、さらには人に頒ち得るような瑞々しさを持つこと以外にあり得ようか。」

 ここで「瑞々しさ」と記されているのは原文ではfreshnessという言葉である。ヘンリー・ジェイムズはここでもinnocenceという言葉を使わない。「無垢」が「知」の反対概念であるということは前に書いた。
 メイジーはfreshnessに満ち溢れているのである。ここで「瑞々しさ」という言葉は「知」を同伴するより積極的なあり方を示しているだろう。なにしろそれは「持続的な抵抗力」として表れてくるものなのだから。
 また「序文」の最後の方では、次のように書いて『メイジーの知ったこと』の核心に触れている。

「本当に良く見、良く表現することは混濁を助長する不断の力を前にしては、容易な仕事ではない。ただ素晴らしいことに、混濁した状態もまた、もっとも痛切な現実の一つであり、色と形と性格を有し、それどころか、しばしば豊かな喜劇性、玩味に値するものの持つしるしと価値の多くを有している。従って、例えばメイジーの魅力の本質、彼女の何物も害ない得ぬ瑞々しさ、換言すれば、汚染した大気の中で彼女に脈動を与え、不倫不徳の世界の中で彼女に華やぎを与える知性の活発さが、不毛な無感覚なもの、あるいはせいぜいとるに足らぬものと受け取られるかも知れぬ場合も起こり得たのだと思う。」

 ここで注目しなければならないのは、「瑞々しさ」が「知性の活発さ」に言い換えられていることである。ヘンリー・ジェイムズがメイジーに「無垢」などを想定していないことは、このことをもってしても明らかであろう。
「序文」の結論とも言えるこの部分は、主人公としてのメイジーに対する見解を述べているだけではない。当然それは『メイジーの知ったこと』で、ヘンリー・ジェイムズが意図したことについての言表でもあったはずだ。
 なぜヘンリー・ジェイムズは、メイジーのような年端もいかぬ少女に、大人たちの混濁した、あるいは汚辱の世界を覗かせなければならないのか。それはそのような世界が「もっとも痛切な現実の一つ」であり、「豊かな喜劇性」をもち、「玩味に値する」ものだからである。
 それを理解できるのは「瑞々しさ」であり、「知性の活発さ」以外のものではない。だからここでヘンリー・ジェイムズは、自身が小説を書く姿勢を高らかに表明してさえいるのである。それは「不毛で無感覚なもの」を掘り起こし、それを偉大なものに変えていく原動力なのである。
 スーザン・ソンタグの言葉を思い出す必要がある。
(この項おわり)