玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『メイジーの知ったこと』(3)

2018年01月28日 | 読書ノート

 まずは『メイジーの知ったこと』という作品のもつ酷薄さに触れておかなければならない。酷薄さや残酷性はこの作品に限ったことではなく、ヘンリー・ジェイムズの小説全般の大きな特徴ですらあるのだが、この作品の酷薄さは主人公がまだ6歳の子供であるという条件を考えれば、特に際立ったものだと言える。
 メイジーは離婚した両親がお互いに親権を譲らないので、「羽子板の羽根」(原語はバトミントンのシャトルだろうか?)のように、半年ごとに両親の間を行ったり来たりするという生活を強いられる。メイジーの位置は次のような文章によく示されている。

「母親の方は、父親が(彼女の言葉を借りれば)「見ることさえ」許すまいとした。父親の方の言い分は、母親が子供に手を触れるだけで、「汚れる」という。」

 父ビール・ファレンジと母アイダの関係は、修復のつかないところまで悪化しているどころではなく、離婚してもなお憎悪を投げつけ合わずにはすまないという状態にある。しかも直接ではなく、メイジーを通して憎悪の交換を果たそうとするのである。

「「パパはママに」と彼女は忠実に言った。「『ママはきたならしい、怖ろしいブタだ!』ってこと付けろって」」

 これはメイジーを迎えにきた母に対して、父がメイジーに言づけろと言って投げつけた罵倒の言葉なのである。またこの二人だけでなく、その周辺にいる人物同士も憎しみをぶつけ合う。母親の方にはウィックス夫人という家庭教師が、父親の方にはミス・オーヴァモアという家庭教師がいて、メイジーの面倒を見るのだが、この二人もお互いその所属するところに従って、互いに憎悪を隠さない。
 まったく子供にとってこれ以上ないほどに劣悪な環境であって、読者はメイジーの行く末を心配しないではいられなくなるであろう。この女の子はどのように育っていくのだろうか。
 物語は意外な展開をみせる。「怖ろしいブタ」のような女アイダも、「けだもののような」男ビールも、互いに新しい恋人を見つけて結婚するのである。アイダが結婚するのは人のよい家庭好きの青年サー・クロードであり、ビールが結婚するのは家庭教師のミス・オーヴァモアである。
 しかし、この二つの結婚がうまくいくはずもなく、メイジーの周囲を新しい憎悪の渦が取り巻いていく。サー・クロードは妻アイダを憎み、オーヴァモアことファレンジ夫人は夫ビールを憎悪するに至るだろう。
 さらにサン・クロードとファレンジ夫人との接近が起きる。そのきっかけを与えたのはメイジーその人であり、彼らはメイジーの〝無垢〟に乗じて接近し、愛し合うようになっていく。こうしてメイジーの周辺は愛憎渦巻く百鬼夜行のような世界へと変貌していくのだ。
 そこで注意を向けなければならないのは、登場人物の誰もが他の登場人物に対する憎悪や非難を隠そうとしないということである。もちろんすべてはメイジーの視点で書かれているのだから、メイジーの見聞の範囲でということになる。
 ヘンリー・ジェイムズの他の小説では、登場人物たちはお互いに自分の本心を見せない。だからこそ腹の探り合いが恒常的に起きてくるのだし、そこに心理小説が成立する根拠が形成されるわけである。
 しかし『メイジーの知ったこと』では事情が違っている。メイジーを除く登場人物たち同士がお互いに本心をさらすことがないにせよ、メイジーに対してだけは彼らはその本心を明かすのである。そのような場面は無数にあるというか、この小説は主にメイジーに明かされた登場人物たちの本心で形成されていると言ってもよい。
 ではなぜ? メイジーが無垢であるために彼らがその無垢に打たれて、語らずにはいられなくなるためだろうか。しかしそれだけではない。サー・クロードもファレンジ夫人も、メイジーを当てにしてお互いに接近しようとするのであり、ウィックス夫人に至っては、メイジーの家庭教師という立場を失ったら、生きていけなくなるために、メイジーに縋りつくしかないのである。