玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ポイントンの蒐集品』(3)

2018年01月19日 | 読書ノート

 スーザン・ソンタグの言葉でちょっと脱線してしまったが、これからも私は彼女の言葉に勇気づけられて、ヘンリー・ジェイムズの作品を擁護し続けることができるだろう。
 前にも書いたように、心理小説特有のカタルシスの瞬間というものがヘンリー・ジェイムズの小説にはあって、それが読者にいわば〝官能的な〟喜びを与えるのは確かである。
『ポイントンの蒐集品』にもそれはあって、オーエンの所在についてフリーダとゲレス夫人が思い迷っているときに、一瞬疑問が氷解して、すぐさま二人が行動を開始する場面には、〝曖昧さ〟を特徴とすると言われるヘンリー・ジェイムズの小説の中にも、クリアな時間が訪れるのだということの証拠がある。
『ポイントンの蒐集品』においてはそれはもはや手遅れであり、実効性をもたないことになってしまうのだが、それはまた別の問題である。ヘンリー・ジェイムズの小説が必ずハッピーエンドでは終わらないという習性をもっていることに、その問題は関係しているが、それについてはまた別の機会に考えてみなければならない。
 これまで『ワシントン・スクエア』と『金色の盃』を通して、ヘンリー・ジェイムズの小説の特徴が登場人物に対する残酷さや、登場人物同士を1対1で対決させる図式的な構図にあることを指摘してきたが、この『ポイントンの蒐集品』についてはどうなのだろう。
『ワシントン・スクエア』では父親の娘に対する残酷な処遇や評価について指摘することができた。それは『ポイントンの蒐集品』についても同様で、父娘の関係は母であるゲレス夫人の息子のオーエンに対する残酷な処遇や評価にそのまま移し替えられている。
 ゲレス夫人はオーエンのことをまったく評価しないし、オーエンが結婚の相手に選んだモナ・ブリグストックに対しては、馬鹿女呼ばわりしてはばからない。そして作者もその残酷な扱いに荷担する。ヘンリー・ジェイムズもまた、モナに対して情け容赦がない。モナは次のように紹介される。

「ブリグストック嬢は声立てて笑い、浮きうきと飛び跳ねるような真似までしていたが、だからといってその作りつけたような顔面に表情のかけらさえ浮かぶではなかった。すらりと丈け高く色白く手足も伸びのびと、ちょっと変わった花柄模様の服を着て立っていたが、目には何の表情もなく、その目鼻立ちの端ばしにもそれと看て取れるような意図は微塵も表れていなかった。その言葉が他になんの表情もしぐさもともなわない単なる音の発出に過ぎないという部類の女性であり、存在の秘密はその声に洩れ出ることはなく、他者のうかがい知り得ぬ埒外にあって安泰であった。」

 いくらなんでもこれは酷い。モナという女性がスタイルがよくてきれいな服を着た美人であっても、行動は軽薄で表情も貧しく、言ってみればなんの中身もない人間だと、ジェイムズはこき下ろしているのである。
 これはもちろん、ゲレス夫人のフリーダに対する評価、美術品をこよなく愛し、それを正しく評価することができ、教養もあり礼節もわきまえた、人間的に奥行きがあるという評価と対峙させるための描写であっても、ここまで酷く書くことはないだろうという気がする。
 またゲレス夫人のオーエンに対する評価は、息子にいい嫁を与えたいという親心からここまでストレートではないが、ある時にはモナとひっくるめて、「わたしは――あの異端の子らを救い、改宗させるためであれば――かどわかすことだって厭いませんよ! 自分が正しいとあれば火あぶりも辞せずです」とまで罵倒する。小説終盤では息子のことを「でくの坊」(原語はどうか調べてみたい)とまで罵るのである。
 オーエンが最後に、フリーダから一転してモナの元へ走る行動について、それが不可解だと中村真一郎は言うが、そうではなく母親の言う通りオーエンが「でくの坊」だとすれば、そんな行動も納得できないことではないのである。