玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ポイントンの蒐集品』(2)

2018年01月18日 | 読書ノート

 昨日、玄文社の用事で新潟市の北書店を訪れた。北書店は新潟の恵文社(京都の有名な小規模書店。独自の棚作りで知られる)と呼ばれてもいる、人文系を中心とした個性的な書店で、私の『言語と境界』も置いてもらっているが、半年間で一冊しか売れなかった。
そんなことよりも、ここに来ると私は店主の佐藤さんの心意気に敬意を表して、必ず一冊は本を買うことにしている。棚を眺めていて、スーザン・ソンタグの本を見つけた。2016年に河出書房新社から出た『スーザン・ソンタグの「ローリングストーン」インタビュー』という本である。
 ソンタグの本は若い頃、『反解釈』と『隠喩としての病い』を読んで大いに刺激を受けた思い出があり、今は読むこともないが、いつも気になっている批評家である。
 彼女はロックミュージックなどのサブカルチャーに詳しく、それが『反解釈』には如実に出ていたと思う。私もロック愛好者の一人で、ソンタグの感性については大いに共鳴するところがあったのだ。
 前置きが長くなったがその『スーザン・ソンタグの「ローリングストーン」インタビュー』のインタビューアー・ジョナサン・コットによる序文の中に、スーザン・ソンタグがヘンリー・ジェイムスのことを、ほとんど手放しで評価している文章が引用されているのを見つけたのだ。まさかソンタグがヘンリー・ジェイムズに傾倒していようとは思いもよらぬことで、しかも『ポイントンの蒐集品』を読み終えたばかりだったので、この偶然にただならぬものを感じているのだ。
 その文章は次のようなものである。

「彼の使う言葉は事実、華やかさや、豊かさ、欲望、歓喜、エクスタシーに満ちている。ジェイムズの世界にはいつも、そこに表れている以上のものがある――それ以上のテクスト、それ以上の意識、余地、空間の複雑性、意識の中で味わうべき養分が潜在している。彼は小説の中に欲望の原理を入れ込んでいるがそれは私にとっては新しい試みに思える。それは認識論的な欲求、知りたいという希求であり、肉のレベルの欲求のようなものだ。それらはしばしば肉欲を模した顕れを見せるか、または、肉欲と対の関係にある。」

 さすが、ソンタグ! 知への欲求と肉への欲望との共通性を、いかんなく抉り出す。ヘンリー・ジェイムズの試みは新しい試みである。分析的知性がある種の官能性と結びつくという指摘は、血と肉との間で揺れ動きながら思考したソンタグにしかできないものではないか。
 確かに『聖なる泉』には、吸血鬼小説のもっているようなエロティシズムが、分析的記述の中に顕わになっていく部分があり、ソンタグの突拍子もないこの指摘が、なるほどと頷かれるのである。
 あるいは『ねじの回転』でもいい。この女家庭教師とその二人の教え子との闘争を描いた作品の背景には、途方もなく淫らなものが隠されているのではなかったか。『ねじの回転』は知への欲求と肉への欲望の間で行われる戦いの記録なのだといってもよい。
 だとすれば『ポイントンの蒐集品』のフリーダ、どこまでも貞淑で節度をわきまえ、知的な姿勢を崩そうとしない若い女性と、大変な美男子ではあるがいささか頭の弱いオーエンとのはかない恋もまた、知への希求と肉への欲求との戦いなのである。
 しかし、ソンタグはそんなことを言っているのではない。ソンタグはもっと言語論的に、ヘンリー・ジェイムズの過剰な心理分析的記述の中に、知的であると同時に官能的な要素を見て取っているのだ。
 私がヘンリー・ジェイムズの作品に魅せられるのは、そのためなのだ。彼の分析的記述を知性のレベルでだけ受け止めているのではなく、私はたぶん肉欲にもまがうようなジェイムズの〝認識論的欲求〟に手も足も出ないのだ。美しい女性に魅せられるかのように……。

ジョナサン・コット『スーザン・ソンタグの「ローリングストーン」インタビュー』(2016、河出書房新社)木幡和枝訳