玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ポイントンの蒐集品』(1)

2018年01月17日 | 読書ノート

 またまたヘンリー・ジェイムズに帰ってきました。この作家の小説はどれも同工異曲的なところがあって、嫌いな人なら「また同じようなことをぐだぐだと書いている」と思うかも知れない。しかし私には、その同じようなスタイルがまことに心地よくて、読むたびに〝ふるさと〟に帰ってきたような気分になるから不思議である。
 ヘンリー・ジェイムズの長編は、あのやたらと邦訳の多い『ねじの回転』を除いては、ほとんどが絶版になっていて、なかなか読むことが難しい。
 しかし、国書刊行会が全8巻の「ヘンリー・ジェイムズ作品集」を出していて、代表作とは言えない長編のいくつかも読むことができる。第2巻には『ポイントンの蒐集品』『メイジーの知ったこと』『檻の中』とう3編の長編(厳密に言うと『メイジーの知ったこと』だけが長編で、後の二つは中編と言うべきか。『ねじの回転』も中編である)が収められている。
 順次読んでいくことにするが、まず『ポイントンの蒐集品』を二日で読破した。この作品は最初短編として構想されたもので、書いているうちにどんどん膨らんできて、中編になってしまったのだという。その意味では『聖なる泉』と同じような成立過程を経ているのである。
 どちらもストーリーは複雑なものではない。『ポイントンの蒐集品』はある未亡人の美術コレクションを巡る骨肉の争いに、ラブロマンスを絡めた作品であり、『聖なる泉』は吸血鬼 小説のパロディのような作品である。『ポイントンの蒐集品』は1896年、『聖なる泉』は1901年の作品で、いずれも後期三部作の前哨戦ともいえる位置を占める。
 またこの二つの作品は4~5人に絞られていて、小規模な作品として構想されたことは歴然としている。ではなぜヘンリー・ジェイムズの作品は長くなってしまうのか。
 それは彼が登場人物の心理分析にどこまでもページを費やしていって、収拾がつかなくなるからである。『聖なる泉』などはその典型のような作品であって、語り手である〝私〟が他の登場人物の心理分析を際限もなく繰り返す。
 そしてそれが吸血鬼小説のパロディであるといったような構図から逸脱していって、心理分析自体がテーマであるかのような様相を呈してしまうのである。『ポイントンの蒐集品』の方は、そこにラブロマンスの要素が入ってくるから、心理分析が目的化してしまうようなことはないが、それが過剰であることには違いがない。
 それをヘンリー・ジェイムズの悪癖と言う人は言うだろう。しかし私にとっては、その部分こそが面白いのであって、ヘンリー・ジェイムズの小説から分析癖を取り除いてしまったら、おそらく世にも退屈な作品になってしまうだろうことは目に見えている。
 なぜなら、ヘンリー・ジェイムズは登場人物に対する心理分析によってこそ、小説に緊張状態を起動させ、それを維持していくのだからである。この『ポイントンの蒐集品』は、プロットも分かりやすくて面白く、登場人物も極めてユニークで魅力に溢れている(主に主人公のフリーダと、彼女をこよなく信頼するゲレス夫人。それに少し頭の足りない夫人の息子
オーエンも魅力的でないことはない)。
 あるいはまた、この本の序文で中村真一郎が指摘しているように、各節の終わり方がこの作家の偉大さを感じさせるほどに巧く書けているので、それだけでも〝いい小説〟になったかも知れない。
 しかし、それだけだったら私はヘンリー・ジェイムズを読むことはないであろう。心理分析への逸脱と、それが起動させる緊張感こそがヘンリー・ジェイムズの作品の美質なのであって、それが作品を損ねているなどということは全くない。
 またそれだけに止まらず、ヘンリー・ジェイムズの心理小説に特徴的な、登場人物に対する残酷さや、戦闘報告書のようなスタイルは、後期三部作にも引き継がれていく重要な要素である。
 では読み始めよう。

ヘンリー・ジェイムズ『ポイントンの蒐集品』(1984、国書刊行会「ヘンリー・ジエイムズサ作品集」2)大西昭夫、多田敏男訳