玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(7)

2018年01月12日 | 読書ノート

第2章アメリカの構築(その3)

 しかし、この文章では何が言いたいのかさっぱり分からない。ここで私は翻訳者に対して苦情を述べておかなければならない。問題は「コレスポンダンス」を「対応すること」などと訳しているところにある。
「コレスポンダンス」がボードレールの詩のタイトルであることを、見逃しているのである。原題Correspondancesは普通「万物照応」と訳されていて、ボードレールのこの作品は象徴主義の理論をもっともよく表現したものであるとされている。この作品の1連、2連は次のとおり。

 「自然」とは一つの神殿 立ち並ぶ柱も生きていて
 ときおりは 聞きとりにくい言葉を洩らしたりする。
 人間がそこを通れば 横切るは象徴の森
 森は親しげなまなざしで彼を見守る。

 長いこだまが遠くから響きかわして
 闇のように光のように広大無辺の、
 暗い奥深い一体のうちに溶け合うのに似て、
 香りと、色と音とが互いに答え合っている。
(安藤元雄訳)

     La Nature est un temple où de vivants piliers
  Laissent parfois sortir de confuses paroles;
  L'homme y passe à travers des forêts de symboles
  Qui l'observent avec des regards familiers.

  Comme de longs échos qui de loin se confondent
  Dans une ténébreuse et profonde unité,
  Vaste comme la nuit et comme la clarté,
  Les parfums, les couleurs et les sons se répondent.

 この作品の大意は、自然は「香りと、色と音とが」互いに照応し合って、人間に対して「聞きとりにくい言葉」を洩らしているが、人間は五感によってその照応が象徴するものを読み取っていくのだ、ということになろうか。
 ここで初めて、その前に出てくる「類感呪術」という言葉とのつながりが示されるのであって、「対応すること」などと訳したのでは、読者は理解の糸口さえ与えられないことになってしまう。
「類感呪術」というのはジェイムズ・フレイザーの用語で、類似したものはお互いに影響し合うという性質を利用した呪術を意味しているが、ボードレールの「コレスポンダンス」が自然の要素の相互作用を歌ったものだとすれば、「類感呪術」と「コレスポンダンス」との相似性が見えてくるわけである。
 そこでタウシグが言及している、ベンヤミンによるボードレールの「コレスポンダンス」解釈についてみてみよう。それは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」という論文のXに出てくる次の文章である。

「ボードレールが万物照応ということで考えていたのは、危機に対して確固たるものであろうとする、ひとつの経験であったと言ってよい。この経験は、礼拝的なものの領域においてのみ存在しうる。この領域を超え出ると、それはみずからを〈美〉として提示する。美においては、礼拝的価値が芸術の価値として現れる。」

「コレスポンダンス」が「礼拝的価値においてのみ存在しうる」というのは、ボードレールが「「自然」とは一つの神殿」と言っていることからも理解できる。それが芸術の領域に超え出ていくというベンヤミンの考え方は、例の宗教的啓示と非宗教的啓示との対比と同じ性質をもっていると私は思う。
 私によく理解できないのは、ベンヤミンがここでも「危機」ということを持ち出してくるところにある。この後でベンヤミンが「万物照応は想起のデータである」と書いていることからは、あの「歴史の概念について」で「危機の瞬間にひらめくような想起」と言っていることとのつながりを想定することができる。
「万物照応」を人間に引きつけて考えれば、それは「想起のデータ」としての意味をももつことは明らかであり、ベンヤミンはその「想起」は「危機の瞬間にひらめく」ものであると考えているようだ。「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」という論文が、実は記憶の問題を中心に展開されていくものだということを思い出さなければならない。
 ところで「危機」という問題を考えるときに、「歴史の概念について」のⅧに出てくる文章は示唆的である。次のようなものである。

「抑圧された者たちの伝統は、わたしたちが生きている〈非常事態〉が実は通常の状態なのだと、私たちに教えている。」