『ポイントンの蒐集品』にはフリーダとその父、妹、ゲレス夫人とその息子オーエン、モナとその母などが登場するが、主要な人物は4人でしかない。フリーダ、ゲレス夫人、オーエン、モナが有意味な登場人物である。
だから、この少ない登場人物の間で心理小説特有の1対1の対決が展開されてもおかしくないと思うのだが、この小説はそのように作られていない。最初に一度に4人が登場するが、モナだけはこの物語の展開に間接的に関わってくるのみで、直接対決の場面に参入することはない。
次第に1対1の場面が増えていくが、それは心理小説が基本的に1対1の場面を要求するからである。前にも書いたように、心理的な闘争の場は二人の人間の間で典型的に現れるのであって、複数の人間の間では起こりえないからである。
しかし、この作品は短編として構想されたためであろう、1対1の複雑な組み合わせを描き分けることはない。フリーダとゲレス夫人の場合と、フリーダとオーエンの場合だけが描かれる。
モナは最初から排除されているし、ゲレス夫人とオーエンの対決も直接的には描かれない。それはすべてフリーダを通して行われるのであって、そのためにフリーダが複雑な位置に置かれるという結果をもたらす。
つまり、フリーダがゲレス夫人と対決するときには、ゲレス夫人の背後にオーエンがいることになるし、フリーダがオーエンと対決するときには彼の背後にゲレス夫人が控えているということになる。
しかし本当の意味での対決=蒐集品の所有を巡っての対決は、ゲレス夫人とオーエンの間にあるのであり、フリーダはゲレス夫人とオーエンの利害関係の間にあって、二人の代理人としての役割をつとめるのに過ぎない。
だから心理的闘争は、ゲレス夫人の場合、フリーダの言葉を通してオーエンの真意を探るという形をとり、オーエンの場合もフリーダの言葉を通してゲレス夫人の真意を探るという形になる。腹の探り合いは直接の対決ではなく、間接的対決を通して行われる。
フリーダを介在させなければ物語も心理的闘争も、もっと単純なものになっていたであろう。小説自体もかなり短くなっていたはずである。しかしこの小説はフリーダ抜きには考えられない構造をもっている。
フリーダのオーエンに対する恋心は、ゲレス夫人の使嗾によるものだからである。それはフリーダがゲレス夫人の〝誘いに乗って〟という意味ではなく、小説の構造的な問題としてという意味で言うことである。
ゲレス夫人は蒐集品を守るために、フリーダとオーエンの結婚を願うのだし、フリーダの恋はゲレス夫人によって許され、モナの存在によって禁じられている。
この許可と禁止の間で苦しむフリーダの姿こそ、この小説の読みどころであって、蒐集品の存在などは本当はどうでもいいものに過ぎない。だから、フリーダとオーエンの恋が終結し、小説が終わりを迎えるとき、ポイントンの蒐集品は、屋敷ごと焼失してしまうのである。
ところで中村真一郎の言う、各節の終わり方の素晴らしさは、この作品にあってとりわけ際立っているように思う。後期三部作でも各節は次の節への予感を孕んで、見事な終わり方をする場面がたくさんあるが、『ポイントンの蒐集品』でそれが際立っているとすれば、それはなんと言ってもこの小説がラブロマンスの要素を強くもっているからだ。
第6章(この小説は短いので章の下の節はない)で、偶然出会ったオーエンの「理解して欲しいんだ」という思わせぶりな発言に危険を察知して、フリーダが彼に「さようなら」を告げる場面は極め付きと言える。
フリーダは逃げるように去っていき、隠れるように辻馬車に乗り込む。その場面はどう描かれるか。
「ともかくも彼女は逃げ切った――もっとも門までの道程は、広い遊歩道を不様に小走りに急ぎながら、そのひと足ずつが彼女の心を痛め、いつ果てるともなく長いものに感じられた。彼女はケンジントン・ロードで駐車場に止まっている辻馬車に、遠くから合図し、かきすがるようにしてやっと乗りこんだが、彼女の合図にさっと応えてくれたこの四輪馬車に身を隠せることが彼女には嬉しかった。そして二十ヤードばかり行ってから、彼女はガラス窓をがちゃりと閉めて、さあ、これで思うさま泣きくずれてもいいのだと思った。」
心理小説の美しさの白眉がここにある。
(この項おわり)