トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

天皇制を維持したいのなら、皇室典範の改正は必須

2006-09-08 13:32:26 | 天皇・皇室
紀子さま、男児ご出産 皇室に41年ぶり、皇位継承3位 (朝日新聞) - goo ニュース
この結果、皇室典範改正論議が下火になるのをやむを得ないだろう。
先ほど見たgooの「投票」によると
皇室典範は改正しないでいい、女性天皇は認めない 36.6%
皇室典範を改正し、女性天皇を認めるべき 34.6%
とほぼ拮抗している。
しかし、今回生まれた親王が仮に天皇になるとして、その後はどうなるのか。皇太子の子供の世代では男子はこの人だけだ。この人が婚姻したら、その妻にまた男子を産んでもらうよう願うのか。そんな綱渡りのようなことで天皇制が維持できるのか。何よりそんな重大な負担を皇室の人々だけに負わせて良いのか。では旧宮家の皇族復帰か。しかし、より近い女性が多数いるのに、遠く離れた男性をわざわざ持ってきて天皇に据えて、それで国民の理解が得られるだろうか?
私は、不遜な言い方に聞こえるかも知れないが、現在のような天皇制では、皇室の方々がかわいそうだと思う。こういう、個人に多大な負担を強いる制度は、廃止した方がよいと思う。しかし、大多数の国民は天皇制を支持しており、廃止される見通しは全くない。ならば、その存続を前提とすると、現実的には、旧宮家の皇族復帰か、女性天皇そして女系天皇を認めるか、この2通りの手段しか解決策はない。そして、男系にこだわった結果、遠く離れた旧宮家の男子が天皇になるよりは、より近い女性がなる方がよいと思う。だから、この問題については有識者会議の結論を支持していたし、それは今回の親王誕生でも変わらない。
まだ、懐妊の発表前、論議がかびすましかったころ、男系にこだわる方々の中には、天皇になるための教育などなくてもいいのだ、ただ男系の男子が天皇の座に就いていればそれでいいのだというような、ずいぶんと失礼な主張も見られた(筆者は忘れたが、産経新聞の「正論」欄)。男系支持者には、天皇崇拝を標榜していながら、人間としての天皇や皇族に対する敬意があまり感じられない傾向があるように思う。そういえば、明治の元勲や昭和の軍人にもそういうエピソードがあった。

酒酔い運転≠飲酒運転(2)

2006-09-06 23:12:41 | マスコミ
昨日の記事の補足。
飲酒運転で検挙されるほとんどが酒気帯び運転です。酒酔い運転はわずかです。おそらく、酒気帯びは検査で簡単にチェックできますが、酒酔い状態(ろれつが回らない、まっすぐ立てない等)のチェックには手間がかかるのと、さすがにそんな状態で車を運転する人は少ないからでしょう。
ですから、仮に飯能市職員が飲酒運転で検挙されてたとしても、そのほとんどは懲戒免職にはならないでしょう。市長のぶちあげにはどれほどの意味があるのか。
せっかく記事にするのなら、こうしたツッコミを入れるか、少なくとも、酒酔い運転とは何ぞやという解説を入れるべきでしょう。こんなところにも、日本の新聞のダメさ加減が現れているような気がします。

酒酔い運転≠飲酒運転

2006-09-05 23:56:18 | 事件・犯罪・裁判・司法
酒酔い運転はすべて懲戒免職に 埼玉・飯能市 (朝日新聞) - goo ニュース
このニュースを読んで「やるな、飯能市!」と思う方が多いと思うので一言。
記事中
「市長は「これだけ飲酒運転について言われているのに、もしやったのなら、人格的に駄目だ。そういう人には公務を任せられない」と説明している。」
とあるので、飲酒運転をやったら即懲戒免職、ということかと思いきや、
「これまでの処分基準では、酒酔い運転で事故を起こしても軽微なら、免職ではなく、停職ですむなど事故内容によって処分が違っていた。今後は、酒酔い運転の場合、すべて懲戒免職になる。」
と、「飲酒運転」ではなく、「酒酔い運転」の場合懲戒免職になるとあります。
飲酒運転と酒酔い運転はイコールではありません。
飲酒運転には酒気帯び運転と酒酔い運転があり、酒酔いはいわゆる酔っぱらった状態、酒気帯びは酔っぱらってなくとも呼気に(つまり体内に)一定濃度以上のアルコールが含まれる状態を指します。
この記事を書いた記者がどこまでわかっているのかわかりませんが、あえて用語を区別して書いている以上、わかって書いているのではないかと思います。提灯記事ですな。
どうせなら、酒気帯び運転も懲戒免職にすればいいのにね。

潮匡人について

2006-09-04 21:59:48 | 珍妙な人々
 保守系雑誌によく登場する潮匡人という評論家がいる。自衛官出身という珍しい経歴で、「戦争は倫理的な行為である」と説き、ちまたにはびこる「軍事=危険」といった偏った見方を正すような主張を展開しているらしい。そのこと自体にはとりあえず異論はないが、どうも珍妙な言動が見られるので、ここで紹介したい。
 数年前、田中康夫の長野県知事当選に際して、潮が田中を批判したのに対し、評論家の日垣隆がそれを批判した。すると潮による日垣批判が雑誌『正論』に載ったが、その文中に、
(日垣の潮批判に)「加えて、無言電話、ウイルス入りの爆弾メール、サーバーへのアタックなど卑劣な攻撃も相次いだ。犯人は特定できないが、他に思い当たる節はない。田中知事も出演する某放送局からは、それまで出演していた番組の降板を告げられた」
との記述があったという(以上の引用は、日垣『それは違う!』(文春文庫)からの孫引き)。
 私もその文章を読んだ覚えがあるが、「卑劣な攻撃」が日垣あるいは田中陣営によるものだと取れるわけで、何とも妙なことを言う人物だと思った記憶がある。専門分野の評論活動はどうなのかよくしらないが、まあ、その程度の人物だということだ。
 そんな潮は現在でも精力的に活動を続けている。しかし、ヘンな言動も相変わらずのようだ。少し前のことになるが、朝日新聞社の月刊誌『論座』の今年の5月号が、「「諸君!」それでも「正論」か」と題し、保守系雑誌の有り様を憂う特集を組んでいたが、そのトップの保阪正康の「あやうい保守言論の「内実」」と題する文章について、潮は『正論』6月号のコラム「保阪氏は誰を批判したのか」でこれを批判している。
 私には保阪の主張はよく理解できた。しかし潮がそれに納得できないのならそれもまたいいだろう。問題はその批判の仕方である。全般的におかしいところだらけなのだが、長くなるのでとりあえず後半の1点に絞る。
 潮は、保阪が、自身の見解を「自虐史観」と批判するような憂うべき読者について「高齢者であれば、保守系言論誌の愛読者であるか・・・」と書いたのをとらえて、
「右の「保守系言論誌」とは何か。特集タイトルが名指しした「諸君!」と本誌。誰もがそう思うであろうが、そう即断するのは早い。」
として、『諸君!』には保阪自身が連載を持っている、自分の読者をライバル誌で罵倒するような真似を「保守派」を自認する保阪がするわけがないという。さらに、『正論』05年12月号において自分(潮)は保阪を批判した、未だに反論はない、保阪は『論座』の文章で「誤りを認める勇気」が大事だと説いた、そんな保阪が自分に反論しないわけがない、したがって保阪は『正論』を読んでいないのだろう、として
「ということは『諸君!』同様、『正論』の「愛読者」も無関係である。
 果たして、氏が咎めた「保守系言論誌」とは、どの雑誌なのだろうか。」
と締めくくるのである。
 これは、何だろう。これは、反論だろうか。
 いちいち書くのも馬鹿馬鹿しいが、最後の箇所、仮に保阪が『正論』を読んでいないとして、それがなぜ「無関係である」となるのか? また、保阪が『諸君!』に連載を持っていることと、読者を批判することはなぜ両立し得ないのか?
 先に挙げた日垣は「大丈夫か「正論」、こんな文章を通しちゃって。そういうレベルの雑誌だと思われるのがオチだ。まあ、そうなんだろうけど。」と揶揄していたが、今、私もそのように思う。
 ついでに言うと、『正論』は『諸君!』に比べ全般的にレベルが低いように思う。レイアウトもダサい。それに『諸君!』の方がまだ多様な見解が見られるし、反対意見に誌面を提供することもあり、寛容性があると思う。『正論』は仲間内だけでこじんまりとまとまって天下国家を憂えてるって感じ。偏狭な印象がある。

朝日新聞のA級戦犯容疑者 緒方竹虎

2006-09-03 16:33:31 | 日本近現代史
 8月31日発売の『週刊新潮』が、
「「朝日・読売」が書かない 「身内のA級戦犯」逮捕者がしたこと」
とのタイトルで、読売の正力松太郎、朝日の緒方竹虎と下村宏がA級戦犯容疑者だったことについて、両紙の最近の戦争検証記事が触れていないことを批判する記事が載っていた。
 そう、そうだった、緒方竹虎もやはりA級戦犯容疑者だったよなあ。
 緒方竹虎といっても今では知らない人が多いだろうが、吉田茂の後継者であり、急死しなければ鳩山一郎の次の首相になっていただろうと言われている人物だ。
 以前、岸信介を批判することにより安倍晋三を批判する手法の話をしたが、岸がA級戦犯容疑者として批判されるのなら、例えば朝日新聞出身で小磯内閣では情報局総裁を務め、戦後は自由党の総裁となった緒方竹虎は批判されなくてよいのか、国連難民高等弁務官を長年務め、現在はJICA理事長の緒方貞子は竹虎の息子の妻に当たるが、晋三を批判するなら彼女も批判すべきではないのか、そういえば緒方はA級戦犯に指定されていたっけなあ、どうだったかなあとちょうど思っていたところだったので、頭の中のもやもやが晴れた気持ちだ。
 そういえば、朝日の夕刊の連載「ニッポン人脈記」では、最近「戦争 未完の裁き」と題して先の戦争に関わる人物を紹介する15回の連載を終えたが、緒方の名が出ることはもちろん、新聞の戦争責任を問うこともなかった。この連載では軍や政治家、天皇の責任を問うこともあったが、自社の責任はどうなのか、まずそれを省みて明らかにしてはどうか。そういうことなしに他者の責任ばかり追及していては、たとえそれが正論であっても説得力がない。
 (念のために書きますが、上記の緒方貞子についての記述は、私が彼女を批判すべきだと考えているのではありません。岸の孫であるが故に安倍晋三を批判するなら、そういう理屈になるがそれはおかしいだろ、だから岸による安倍批判もおかしいよと述べているに過ぎません。たまに読解力に欠ける方がおられるので誤解のないように。また、緒方や正力、下村の責任については、それなりにあると思っていますが、起訴された人物全てを下回るものであったかどうかは、それほど詳しい知識がないので正直分かりません)

上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』(2)

2006-09-02 16:45:04 | 日本近現代史
 8月18日の記事の続き。
 この本の全般にわたって論評したかったのだが、いざ書いてみるとかなり大変な作業になる上、もう、靖国問題を論じるタイミングを逃してしまったように思うので、疑問点等について簡単にまとめておく。
 「どんな罪にしろ、裁判ののち判決を受け、判決通り処刑されれば、その罪は一件落着である。一事不再理(一度判決が確定した事件については、それ以上公訴を起こすことができないという原則)は秩序ある社会の鉄則だ」(75~76頁)と言うのだが、一事不再理というのは犯罪者が犯罪者でなくなるとか、犯罪者を犯罪者として論評することを禁止するという意味ではないだろう。反論になっていない。
 「東京裁判と無関係の中華人民共和国や韓国は、日本の首相の靖国参拝に悶着をつける「資格がない」ことだけは、ここで繰り返し断言しておきたい。」(86頁)という主張も、上坂に限らず最近よく見るが、なぜ東京裁判に不参加だと靖国参拝を批判する資格がないのか、私にはわからない。サンフランシスコ平和条約第25条に、非締結国にはこの条約に関するいかなる権利も権原も与えないとあるからだと言うのだが、それは当たり前のことを確認しているにすぎない。それをもって、日本政府がA級戦犯についてとる行動に中韓が一切論評ではないと唱えるのは無理がある。
 (余談だが、「悶着をつける」って何だ。悶着とはもめごと、いさかいのこと。「悶着を起こす」「ひと悶着」などとは言うが、「悶着をつける」とは言わないのではないか。「文句をつける」「因縁をつける」とは言うだろうが。)
 また、サンフランシスコ平和条約の第11条で日本が受け入れることにしたのは「裁判」か「判決」かという、これも最近よく取り上げられる問題で、日本政府が「裁判」と訳したのは誤りで正しくは「判決」であり、「これは誤訳だったことは既に通説になっている」(115頁)「国際法学界の常識になっている」(118頁)と言うが、本当だろうか。たしかに近年そのような主張が多くなされているが、「通説」とまで言うのはどうか。ちなみに、かねてから東京裁判の見直しを主張する立場で研究を続けてきた牛村圭は、「裁判」で正しいと主張している(『「戦争責任」論の真実』PHP研究所)。私も同書の説に説得力を覚えた。
 遺族等援護法の制定等により、戦犯は独立後2年にして国内的には犯罪者ではなくなったという主張も、それはそのとおりだろうが、果たしてそれが国際的に通るだろうか。国際的(対外的)には日本政府は未だに戦犯=犯罪者との立場を取っているのではないか。それを覆すにはサンフランシスコ平和条約を否定せざるを得ないのではないか。
 最後に、以前紹介した「声明書」の試案が掲載されているが、本書の主張をコンパクトにまとめたもので、威勢はいいが、あまり説得力はなさそうだ。
 結局、あまり知識のない人が、参拝賛成派の主張を要領良く知るには便利な本。ただし、この1冊だけでは見方が偏りすぎるだろう。

 評価すべき点もある。
 意外なことに、上坂は、靖国神社の現在のあり方にも不満があるらしい。神道を掲げたまま国民全体の慰霊の場にするのは無理があるという。そして、無宗教にはしないまでも、国民のコンセンサスをまとめ、日本の伝統的慰霊の場として維持する方法を考えるべきだと説く。無宗教にしないという点を除けば、私も全く同意見である。しかし、靖国がそのように変わるのは極めて困難であろうし、その兆しもない。だから私は国立追悼施設の新設を支持するのだが。
 また、靖国に祭られる基準がはっきりしないことも批判している。これも、そのとおりだと思う。

田中派支配から福田派支配へ

2006-09-01 23:59:03 | 現代日本政治
安倍氏、自民総裁選出馬を正式表明 小泉路線踏襲姿勢も  (朝日新聞) - goo ニュース
 直接この記事についての論評ではないのですが、安倍後継について以前から思っていたことを書きます。

 田中角栄が金脈問題で首相を辞任した後、この問題やロッキード事件の影響が強かった三木・福田内閣期はともかく、第2次角福戦争に勝利して大平内閣を成立させてからは、田中派とその後継者たちが自民党を事実上支配してきたといっていいと思う。続く鈴木善幸、そして中曽根康弘も田中派の支援により政権を獲得できた(中曽根内閣など、発足当初「角影」「田中曽根内閣」などと呼ばれていたものだ)。やがて竹下登らが田中派から多数を引き連れて独立するが、その竹下が中曽根から政権を譲られ、消費税導入の騒動とリクルート事件で短期政権に終わるも、続く宇野、海部、宮沢内閣もまた竹下派の支援により成立した(宮沢ら総裁候補を小沢一郎が「面接」したエピソードは有名)。
 佐川急便事件などで金丸信が失脚したため、金丸寄りの小沢、羽田、渡部恒三らが派を離れ、やがて彼らは宮沢内閣を倒して自民党を離れ、細川非自民政権を成立させた(細川も過去の参議院議員時代に田中派に所属している)。1年を待たずして細川が辞任すると後任には羽田が就いたが、社会党の連立離脱によりさらに短命政権に終わり、代わって自社さ連立の村山内閣が成立する。竹下派を継いだ小渕派は連立政権下で勢力を回復し、野党であることを前提に総裁に選出されていた河野洋平に代わって小渕派の橋本龍太郎が総裁に就任。さらに村山の退陣を受けて首相に就任する。参院選で敗北し辞任した橋本の後継には同派の小渕が当選。小渕が倒れたため急遽発足した森政権も、密室で森後継を決めたとされる5人組の中に野中、青木と小渕派が2人も入っている。
 しかし、森の後継の総裁選で橋本が小泉に敗れてから、橋本派の勢力にもかげりが見えてきた。「抵抗勢力」と呼ばれて批判され、橋本は日歯連献金問題で派を去り、野中も引退し、綿貫も離党を余儀なくされ、とりあえず津島雄二を会長に据えたものの、派の次代を担う有力者は少なく、総裁選に独自候補を立てることもできない。
 また、田中と大平の盟友関係に象徴されるように、田中派と協力関係にあった同じく保守本流である大平派→宮沢派も、相次ぐ分裂により力を失い、今回の総裁選では麻生、谷垣の両名を候補者に出すものの、求心力は弱く、凋落著しい。
 代わって興隆著しいのが福田派の後身である森派である。保守傍流と言われ、福田から森まで実に20年以上も政権の座から遠ざかっていたが、森、小泉に続いて安倍をも首相の座に就けようとしている。自民党の特徴は派閥の連合体であると言われていたが、小泉以後、官邸主導で党の力が低下したため、派閥の力も低下し、総裁派閥であるがゆえに森派の一人勝ちが続いている。
 これは、結局、戦後日本を主導してきた田中派的なもの、そして大平派的なもの(利益誘導型政治、経済重視、ハト派、中国寄り、事なかれ主義、米国の傘下で軽武装)がいよいよ限界に達し、福田派的なもの(反共、愛国心、タカ派、改憲志向、自主防衛)が求められているということではないだろうか。
 そして、小沢が小泉の対向者として第1野党である民主党の党首を務めていることに象徴されるように(奇しくも、鳩山幹事長もまた元田中派である)、自民党が福田派的なものを、民主党が田中・大平派的なものを代表していくようになるのではないだろうか。
 先の郵政解散の頃、堀内光雄や亀井静香がしきりに言っていたように、自民党はもう昔の自民党ではない。安倍政権下では、さらに重大な変化が進行するのではないだろうか。